触れられない距離

神崎

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 押し倒されたとき眼鏡が吹っ飛んで壁に当たって割れる音がした。そして沙夜はとっさに刺されると思い、手で福島の体を押しのけようとする。だがその時左手に焼けるような痛みと、温かいモノが降り注いだ。それは自分の血液だったのだろう。
 血まみれのスーツとブラウス。スーツは濃い灰色で血が落ちてもわからないだろうが、ブラウスは白なのだ。明らかに血液の跡が黒く残っている。
 さすがに肌に落ちた血液は拭き取ってもらった。だがその格好で病院を出れば、明らかに何があったのかわかるだろう。そう思いながら沙夜は病院の処置室で看護師に包帯を巻いてもらっていた。
「通院は必要ですか?」
 側にいた女性医師に聞くと、その医師はため息を付いて言った。
「そうですね。二,三日は。」
 この忙しいときに病院に通うことが出来るだろうか。沙夜はそう思いながら、その包帯を見ていた。
「お風呂は入っても良いですけど、こっち側は濡らさないようにしてください。」
「はい。」
 料理は出来ないかも知れない。二,三日は買ってきたものか、外食で済ませてもらうしか無い。だが沙夜はふと思い出す。
「あ……。」
 その様子に看護師が手を止めた。
「どうしました?痛いですか?」
「あ、いいえ。何でも無いです。」
 冷蔵庫に鶏肉がある。冷凍していたのを解凍して、今日中に何とかしないといけなかったのに。沙夜はそう思いながら、誰か食事の用意を出来る人がいるだろうかと思っていた。翔は出来ないことは無いだろうが今日は遅くなるだろうし、芹には包丁や火を使わせたくない。沙菜に至っては料理をさせるわけにはいかない。食材が無駄になる。
 どうしたモノかと思っていたときだった。紙袋を持った看護師がその中に入ってくる。
「泉さん。おうちの方が着替えを持ってきてくれましたよ。」
 そう言って側にあるかごの中にそれを入れる。
「ありがとうございます。」
 おそらく沙菜だろう。沙菜に連絡はいっているだろうから、着替えを持ってきてくれたのだろう。そう思いながら、包帯を巻き終わった手でその紙袋を見る。そこには沙夜がいつも着ているジーパンやセーターが入っていた。それを見て少し違和感を持つ。
「あの……家の者って、女性じゃ無かったですか?」
「いいえ。男性の方ですよ。外で待ってます。」
 まさか芹がここまで来たのだろうか。そう思いながら、沙夜はジャケットを脱ごうとした。その時看護師が側にあるカーテンを閉める。医師には男性もいるのに、まさかここで裸になり着替えを始めると思っていなかったから。
 血まみれのスーツとブラウスはもう着れないだろう。そう思いながら来ていたモノを紙袋に入れる。着替えを済ませると、沙夜はそのカーテンを開けた。
「お世話になりました。」
「ではまた明日見えてください。」
 医師はカルテを書きながら、沙夜にそう言った。そして沙夜はそのまま処置室を出ると、その前にあるソファーに座っていた芹を見る。
「芹。」
 芹は立ち上がると、少し笑った。刺されたと言っていたので、大丈夫かと思っていたが眼鏡のレンズが割れているくらいで割と元気そうだったから。
「無事そうだな。」
「少しクラクラするけど、結構血を流したからかもね。ありがとう。服を持ってきてくれて。血まみれで会社に帰るところだったわ。でもどうして刺されたこととかわかったの?」
「沙菜から連絡が来たんだよ。沙菜も心配してたけど、どうしても今は現場を離れられないらしくて。」
 沙菜は今日は現場だと言っていた。スタジオでは無く地方へ行っている。簡単には来れないのだろう。
「大丈夫だって、沙菜にもそれから翔にも言っておかないといけないわね。」
 バッグから携帯電話を取り出そうとした。その時エントランスの方から、看護師が沙夜に向かってやってくる。
「泉さん。受付が読んでますよ。」
「あぁ。そうだった。はい。すぐ行きます。」
「それから警察の方も見えてますから。」
「はい。芹。ごめん。二人に連絡を取ってもらって良いかしら。」
「二人も心配だろうし良いよ。俺、連絡を入れておくから。」
 看護師に連れられて、沙夜は受付へ向かう。その後ろ姿を見ながら、芹は携帯電話を取り出そうとした。だが手が震えている。それは安心からだろう。
「良かった……。」
 刺されたと言われたとき、沙夜が死ぬことを想像した。沙夜がいなくなると考えただけでぞっとする。そしてその殺人犯をどれだけ恨むだろう。そしてどうして自分が付いてやれなかったのだろうと、後悔することになるのだ。そんな想いを二度としたくない。

 沙夜が警察から解放されたとき、もう退社時間を過ぎていた。会社は現場検証が終わり、血で濡れた床も綺麗に掃除をされていて何事も無かったかのように思える。
 朔太郎もその同期も、沙夜が帰ってきたのにほっとしていたようだった。
「すいません。植村さんも神木さんもご迷惑をかけたみたいで。」
 すると朔太郎は首を横に振った。
「いいや。痛い思いをしたのは泉さんだろう?俺らは見てただけだし。」
「眼鏡割れてるじゃん。買い直さないといけないな。」
「えぇ。あと仕事が……。」
 その時、オフィスに西藤裕太がやってきた。そして沙夜を見てすぐに近づいてくる。その表情は安堵のように思えた。
「泉さん。怪我は大丈夫だったんだね。」
「二,三日は通院しますけど。平気です。」
「労災が降りるから、病院の領収書とか、眼鏡を直したりする?」
「えぇ。さすがに割れているし。」
「その費用もこっちが見る。事務に渡しておいて欲しい。」
「わかりました。」
「それから……疲れているだろうけど、ちょっと上と話をしたいと思っているんだ。君と、「二藍」を同席させて。」
「そうだと思ってました。「二藍」の人たちは、それぞれのスケジュールはどうですか?」
「ずらしてもらったり、別の日に変えてもらったりした。十九時にはここに来る。」
「取材はどうでしたか。」
「問題は無かった。だけどね……。」
 迎えに行かせた男がまずかったのだろう。遥人から連絡が来て、あの男を二度と自分たちに付かせないでくれと言ってきたのだ。もし沙夜に何かあったら、あの男を付かせようと思っていたのに、その当てが外れた。それくらいのことを言ったのだろう。何を言ったのかはわからないが、これで「二藍」は気難しいという噂がまた更に立ってしまう。
 その時オフィスにぞろぞろと「二藍」のメンバーが訪れた。衣装では無く私服のままの格好で、純と一馬は取材の前はレコーディングだったのか楽器を担いでいる。
「泉さん。無事だったんだね。」
 治がそう言うと、沙夜は少し笑って言う。
「大げさですよ。血が結構流れたってだけですから。少しクラクラしますけど、平気です。」
「貧血になったな。栄養のあるモノを食え。」
 一馬はそう言うと、少し笑う。
「栄養のあるモノ?何だろう。俺レバー苦手。」
 遥人はそう言うと純が少し笑って言う。
「子供かよ。」
「レバニラ炒めも良いよね。泉さん。今日は中華でも食べに行く?」
 翔がそう言うと沙夜は手を振って言う。
「家に食材があるんですよ。それを使わないと、腐ってしまうんで。」
「うちのに行かせようか?」
 治がそう言うと、沙夜は更に手を振って言う。
「そこまで甘えるわけにはいかないので大丈夫です。」
 まるで家族みたいな会話だな。裕太はそう思っていた。だがその家族みたいな会話が、今回は誤解を生んだのだ。それに気がついていないのだろうか。
 人を寄せ付けない気難しい「二藍」の五人。その五人が信頼する相手が沙夜なのだ。これから三倉奈々子がプロデュースを離れるのだから、当然のように信頼する相手はこれからは沙夜が中心になる。
 だからこそこういう事件が起きたのだ。
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