触れられない距離

神崎

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ポテトサラダ

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 会社に戻ってきた沙夜は、二,三日中に芹からの歌詞を送られてくることを担当に告げ、そのまままた自分の作業を進める。地方のホールの予約が一つ取れた。地方によってはその土地で一番大きなホールを取れるのだろうが、キャパを考えるとそこまで入るとは思えない。集客数に会わせたホールを取らないといけないのだ。それにチケットも完売しなければ意味が無い。
 そのあともツアーグッズの案や、出来上がったCDジャケットのチェックなどやることは山のようにある。
 その時、オフィスに入ってきたのは西藤裕太だった。裕太もまた管理者として先に帰ることは出来ない。「二藍」だけでは無く他のバンドの管理もしているのだから。自分のデスクに帰ると、パソコンを開く。そして目をとめた。
「泉さん。」
 作業をしていた沙夜に裕太は声をかける。
「はい。」
 沙夜は立ち上がって、裕太の所へ向かった。
「今日は遥人と翔はテレビ出演だといっていたね。清田啓太と一緒に。」
「はい。報告は届いています。」
 滞りなく収録は終わったという。話の中心は音楽の話題で、シンガーソングライターとして一人で音楽を作っている啓太と、バンドとして五人で音楽を作っているモノたちの違いなんかを話していたようだ。もちろんそれだけでは無く、プライベートのことも少し匂わせる。それは趣味程度のことだ。遥人はともかく翔をはじめとした他のメンバーは生活感を匂わせない。唯一公表しているのは、一馬と治は既婚者で子供がいるということだけだろう。
「その時、収録では無かったんだろうがユニットを一人紹介されたらしい。清田君から。」
「ユニットですか?」
「路上ライブをしているような人たちというのは知っているだろうか。」
「えぇ。」
 会社の近くの公園でもたまに路上で歌っている人がいる。わざとレコード会社の近くで歌えば、声をかけられるかも知れないという淡い期待を抱いているのだ。だがそれでモノになった人は、ほんの僅かでしかも続いている人はほとんどいない。
 路上ライブというのは、場合によっては法に引っかかることもある。近隣から騒音と言われれば、警察が取り締まることもあるのだ。そんなリスクを抱えてまでやることでは無い。
 もちろんプロになりたい人たちだけでは無く、ただ純粋に音楽を届けたいという人もいるのだ。そういう人たちは声をかけても、あまり媚びを売ったりしない。
「そこの人たちでね。ユニット名は「紅花」というらしい。」
「「紅花」?」
 色の名前をユニット名に入れているところを見ると、同じような匂いがするユニットだと思った。
「女性が歌っていて男性がキーボードを弾いているらしい。その人達は割と話題になっていてね。他の部署でも。」
「はぁ……。それが何か?」
「翔のソロアルバムのゲスト歌手にどうかと、清田から勧められたらしい。」
「……待ってください。その話はまだ企画段階で……。」
「俺もそう思う。路上で歌っているような素人に声をかけたとなると、希望を持たせてしまう。その時駄目になったという話になったら、責められるのはこちらだ。」
 どこから漏れたのだろう。正式に発表になるのは年明けだというのに。そして気になることがあった。
「そう言えば……。」
「どうしたのかな。」
「天草裕太さんからも声がかかったそうです。」
「天草裕太?あぁ。一馬の元バンドのメンバーか。天草とはちょっとコラボは出来ないな。」
 裕太がどうしてその話を知っていたのかと考えたことも無かったが、あの時裕太からずいぶん自分とコラボをして欲しいと言われていたのだ。
「どうしてですか?」
「ちょっと時代に乗り遅れている感じがするんだよ。まぁ……今はクラブDJが忙しいようだし。翔はそちらの方はまだ披露は出来ないだろう。」
「DJプレイはまだ勉強中といったところで、披露は出来ないそうです。」
「だったらそれはそれでいい。違うところにいれば、声がかかることも無いだろうから。」
 どうやら天草裕太には、西藤裕太は良い思いをしていないらしい。その言葉の端に棘が見えるから。
「これ以上は漏れない方が良いのですけど……SNSをチェックしてみます。もしかしたらそっちの方で漏れているのかも知れないし。」
「それから、そのソロアルバムだけど。」
「はい。」
「翔と少し話を煮詰めてくれないか。どんな曲にしたいのかとか、あと一緒に作る人のこととかね。」
「「夜」は良いんですか。」
「「夜」のことは本当にわからない。だが、翔とは相性が良いような気がするんだ。もし「夜」が関わってくれるなら、翔のアルバムはヒットすると思うよ。」
 その言葉に沙夜の心が揺れた。
 自分が関わっているモノであれば、ヒットはして欲しいと思う。だがそれ以上に自分が関わってしまったら売れるものも売れなくなるかも知れないのだ。
 あの時の文字が、まだ沙夜の頭の中を駆け巡る。倒れそうな足下を必死で堪えて、自分のデスクに戻っていった。

 翔は帰ってくると、冷蔵庫の中を開ける。そこには朝仕込んでいた鰺フライやポテトサラダ、それからトマトとレタスのサラダ、こんにゃくとにんじんのきんぴら、ほうれん草のおひたしなどが並んでいる。それを手に取ると、鰺フライはレンジで温めた。
 そして味噌汁を温めている間にご飯をお茶碗につぐ。まだ沙夜が帰ってきていなくて、あと一人分くらいのご飯がありそうだ。
 そして冷蔵庫からおひたしなどを取り出すと、ふと気になるビニール袋があった。その中を覗くと、そこには赤いリンゴが三つ入っている。
「リンゴ?」
 その時、後ろのドアが開いた。そこには芹の姿がある。
「帰ってたのか。」
「うん。芹。このリンゴはどうしたんだ。」
「沙夜が買ってきた。」
「沙夜が?」
 昼間にここに来たのだろうか。翔も沙菜もいないこの家に。
「昼に沙夜が来たのはリテイクを食らったから。」
「珍しいな。」
 その文章を考えていたのだろうか。芹もキッチンにやってくると、コップを軽くゆすいでお茶を淹れる。
「リンゴは?」
「ちょっと事情があったんだよ。カモフラージュっていうか。」
「カモフラージュ?」
 すると芹はその袋を手にすると、リンゴをまた見る。
「しかし見事なリンゴだな。甘そうだし。剥いて食うか。」
「食事はしたんだろう?」
「もう少し仕事をしたいからな。お前も食う?」
「……そうだな。一人で一つは食えないだろう?」
 芹はそう言うとまな板と包丁を取り出すと、そのリンゴを剥き始めた。その手つきは、すでにここに来たときとは別人のようだ。全く何も出来なかった頃と違う。
「くそ。また切れた。」
 それでも一気に皮を剥くことが出来ないらしくて、何度もブツブツと皮が切れていた。
「大根のツマとかで練習すると良いかもな。」
 翔は温め終わった味噌汁を茶碗についで、そのリンゴの皮を見ていた。確かに暑さも太さも一定していない。だが綺麗に剥けている方だ。
「翔さ。」
「何だよ。」
「沙夜と付き合いたいと思わないのか?」
「思うよ。キスしたいしセックスしたい。」
「……無理だと思う。」
「それはお前のモノだからって事か?」
 その言葉に芹は驚いたように翔を見た。そんな言葉で返されると思っていなかったから。
「俺のじゃ無いけどさ。」
「だったら何でそんなことを聞くんだ。」
「……沙夜は誰のものにもならないと思う。沙夜がそれを望んでいないし。」
「望んでいない?」
 すると芹はリンゴを切りながら言う。
「男と女の関係を相当嫌がっているんだ。そんな関係になりたくないって。」
 セックスに良い思い出が無いのだ。だから映画を見ても、歌詞を読んでも愛が溢れて幸せいっぱいのカップルを見てもどこか冷えた目で見ていたのだと思う。
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