触れられない距離

神崎

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ポテトサラダ

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 リンゴの入った袋を下げて、家に帰っていく。近所まで来れば、知っている顔がいて出掛けようとしている主婦が沙夜に挨拶をしてきた。
「あら。今日は早いのね。」
「仕事の途中です。また出ますから。」
「そう。頑張ってね。」
 サンダル履きで前掛けをしている。あの八百屋なり、魚屋なりに今日の夕食の食材を買いに行くのだろう。
 沙夜は家に着くと鍵を開けて家の中に入っていく。誰かが休みだったりすればこの部屋には生活音のようなモノがする。トイレから出てくる音。窓を開ける音、誰かが歩く音などがするのだが、今日は静かなモノだ。芹がいるだけだから。
 沙夜は靴を脱いで真っ直ぐ芹の部屋の前に立つ。そして声をかけた。
「芹。」
「んー。沙夜?入って良いよ。」
 この部屋だけは引き戸なのだ。それを開けると、こたつに入ったままノート型のパソコンに何か打ち込んでいる芹の姿があった。パソコンのそばにはいつも芹が使っているマグカップがあり、コーヒーか何かが入っているようだ。
「どうしたんだよ。」
「もらった歌詞のリテイク。」
「リテイク?」
 すると芹は沙夜の方を見て、いぶかしげな顔をした。あまり書き直しといわれたことが無かった芹には、意外な言葉だったのかも知れない。
「演歌の歌詞だって言ってたじゃ無い。」
「うん。」
「男に捨てられるような女ね。」
「うん。」
「ちょっとパンチが足りない感じがするのよ。未練が無いような感じにも取られるわ。女は男に捨てられて、それでもまだ男を思っているのよ。こんなにあっさりさようならなんて言えないわ。」
 すると芹は頭を掻いて沙夜に言う。
「だったらもう少しリアリティを入れるか。そうだな……不倫の話にしようか。」
「不倫?」
 その言葉に沙夜は驚いて、芹を見る。そして沙夜もまたこたつの側に座り込む。
「俺がしたことだったらリアリティがあるだろう。あの時のことを思い出して……。」
 裕太と紫乃のことを書くのだろうか。それだけは避けて欲しい。何より芹が辛いだろう。
「それはやめて。」
 焦るように沙夜がそう言うと、芹は少し笑う。
「冗談。でも……今までの歌詞はそういうヤツばかりだよ。捨てられた女の話。性別を逆転すれば俺のことなんだから。」
「……。」
 想像はついていた。芹がどうして捨てられた女の歌詞ばかりを書いているのか。性別を逆にすれば、それは芹のことだから。芹はずっと騙されていたのだ。
「今すれば不倫だし。」
「連絡を取ることがあるの?」
「無いよ。取りたくも無いし、会いたくも無い。兄には更に会いたくない。」
 すると沙夜は少しため息を付いて言う。
「……天草さんに駅で会ったの。」
「兄さんに?」
 驚いて芹は沙夜の方を見る。
「渡摩季のことが気になっているみたい。それが芹では無いかとは薄々気がついている。私にずっとカマをかけてきたわ。」
「……だったら本当に外に出たくないな。紫乃はともかく、兄さんは俺の様相が変わっても気がつくだろうし……それに、あの時……。」
「え?」
「テレビ番組に「二藍」が出たとき、俺、お前に会いに行っていたんだ。」
「そうだったわね。」
 仕事のついでに寄ってみたと行っていたが、それは嘘だとすぐにわかる。それが少し嬉しかった。
「お前がテレビ局に戻ったあと、兄さんに声をかけられたような気がした。慌ててその場を離れたけど……。気づかれたのかも知れない。」
「だからあの時……。」
「え?」
「本番前に天草さんから芹に会っただろうと言われたわ。誤魔化したけれど、何で知っているのかって思ってた。」
「……どっちにしてもばれたくない。」
「そうね。あなたは外に出る予定は無いの?」
「今のところは……。あぁ、今度ライターの仕事で外に出ないといけないんだっけ。」
「何の記事?」
「ライブだよ。何つったっけ。「JACK-O'-LANTERN」のライブ。」
 紗理那のバンドのライブか。それを聞いて、沙夜はため息を付く。あまり音楽に力を入れていない姿だけのバンドだから。
「……無駄足になるわ。」
「だと思うよ。でも辛口でも良いっていわれてるし。素直に書くよ。」
「どの雑誌か教えてくれる?読みたいわ。」
「連載してるんだよ。この雑誌に。」
 そう言って芹は立ち上がると棚から雑誌を取り出した。それは沙夜がこれから打ち合わせに行こうとしていた雑誌で少し驚いた。
「これの?」
「うん。後ろの方だけどな。草壁って書いてないか。」
「気がつかなかったわ。」
 後ろの方の白黒のページだった。一ページの半分ほどの記事にコラムのような感じで草壁の書いた記事が載っている。つまり芹なのだ。
「ずいぶん辛口ね。このバンド、解散するわよ。」
「実際そうみたいだ。音を聴いてさ。なんか……音がまとまってない感じがした。バラバラで個人プレイが多い。「二藍」も個人プレイに見えるけど、お互いの音をよく聴いて尊重しているところが見える。だから凄いなって思うんだ。」
「翔に聞かせてあげて。」
「面と向かって批判するのは懲りたし、同じように褒めるのも恥ずかしいだろ。」
「翔はそれくらい無いと自信が持てない人じゃ無い。音楽を演奏しているときはあんなに堂々としているのに、どうして普段はあの調子なのかしら。」
「ソロアルバムを出すって話は?」
「まだ企画段階よ。本格的な話は年明けからかしら。」
「その時は沙夜がついているのか?」
「どうかしらね。」
 そこまで自分がついていられるだろうか。遥人だって個人の活動の時は専用のマネージャーが付いている。きっと翔もそういう人がついていれば良いと思うが、その時は沙夜の手から離れるかも知れない。
「翔が沙夜の手から離れるのって寂しいと思うのか?」
「え?」
「ずっと付いていたんだろう?それが自分の手から離れるのって寂しいって思わないか?」
 すると沙夜は首を横に振った。そして少し笑う。
「いずれはそうなるわ。「二藍」だけの活動をしていない栗山さんのように、みんな個々の活動が忙しくなる。でも居場所は「二藍」なんだって思ってくれれば良い。その時私がマネジメントを出来れば良いと思うわ。」
 それ以上の感情は無いんだろうか。ただ単純に男として、女として、翔に惹かれていることは無いのだろうか。そう思うと芹の手がぎゅっと握られる。
「それにしてもこたつ出している割にはこのこたつは熱が入っていないのね。」
「昼はいらないな。」
「それもそうね。あぁ、それからリンゴを買ってきたの。食べる?」
「良いよ。夜食べよう。でも今日の夜は沙菜がいないんだっけ。」
「地方へ行くって言っていたわね。飛行機に乗らないといけないような。」
「損したな。あいつ。」
 芹は少し笑ってパソコンの画面を見る。もう仕事に入ろうとしていたのだ。
「じゃあ、私行くわ。これから出版社の方へ行くから。」
 こたつを出て、沙夜は荷物を手にする。そしてリンゴを手にしてリビングの方へ向かうと、それを冷蔵庫に入れた。
 その様子を芹は見ていて、今度は不倫の話では無く取られそうな女の話を書けば良いかもしれないと思っていた。
 沙夜が翔に取られるかも知れない。そう思うだけで自分が保てなくなりそうだ。それなのに手を伸ばして、沙夜を引き寄せることも出来ない。沙夜が誰を思っているのかまだわからないのだから。
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