触れられない距離

神崎

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七輪の焼き肉

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 沙夜は帰ってくると、買ってきたものを冷蔵庫に入れた。その間、芹はお湯を沸かす。お茶を入れるためだ。
「たまには紅茶にしようか。」
「良いわね。」
 戸棚から紅茶の葉を取り出して、ティーポットに入れる。そしてカップを二つ取り出す。それはいつも沙夜と芹が使っているモノだ。
「あぁ、こっちにしようか。」
 しかし沙夜はそう言って別のカップを取り出した。
「何で?器なんかどうでも良さそうに見えるけど。」
「別に良い紅茶葉というわけじゃ無いけど、ここでも少し日常を変えたいじゃ無い?」
 少し洒落たような紅茶のカップは、翔が結婚式に呼ばれたときの引き出物だった。おそらく翔はこのカップを沙夜と一緒に飲みたいと思って、選んだのだと思う。だが実際紅茶を飲もうとしているのは芹なのだ。
 お湯が沸いてティーポットの中にお湯を注ぐ。そしてそのティーポットと器をトレーに乗せると、リビングのテーブルの上に置いた。
 部屋で話をするのは気が引ける。かといってダイニングでは距離がある。リビングのソファーが良かった。並んで座り、沙夜はカップに紅茶を注いだ。ふわんと紅茶独特の良い香りがする。コーヒーが一番好きな沙夜だが、紅茶もたまには悪くないと思っていた。
「石森愛ってのはさ。」
 紅茶を受け取った芹が、いきなり話を切り出した。
「うん。」
「ライターをしているって言ってたじゃん。俺。」
「そう言えばそうだったわね。カモフラージュのためだったかしら。」
 外で会うときは、ライターとしての仕事が多い。その時も偽名を使っている。
「ライターの名前は「草壁」って名乗ってる。」
「草壁って……。」
 聞き覚えがある名前だと思った。それは音楽ライターだと思う。「二藍」のことも書いていた事もあった。
「うん。その通りなんだよ。俺、音楽ライターもしてて。その担当が「石森愛」って女。付き合いは……大学の時くらいからか。」
 芹には兄が居る。その兄が、大学を出て音楽で身を立てた。生活は出来ているように見えていたと思う。そして数年後に芹も大学に入った。
「その頃かな。兄が実家に金の無心に来るようになったんだ。」
「音楽で身を立てていたのに?売れていなかったの?」
「いや。売れてたよ。ビールのCMなんかにも出てた。ジャズバンドでキーボードを弾いていたと思う。作曲やアレンジもしてて……。」
「ちょっと待って……。」
 その人に聞き覚えがある。沙夜はそう思って芹の話を止めた。だが芹は口元だけで笑い、その額にかかっている長い髪をかき上げる。するとそこには、沙夜が見覚えのある顔があった。
「天草さん?」
 いつか音楽番組で顔を合わせる事もあった天草裕太が、芹の兄だというのだろうか。なぜこんなに長く住んでいて、気がつかなかったのだろう。
「うん。天草裕太は俺の兄。四つ上の……翔と同じ歳だっけ。」
 だがその話には違和感がある。天草裕太の音楽は多少時代遅れの感じはあるが、CMの曲だの、イベントに出たりすることもあったり、何より自分のバンドがまだ売れている。金の無心に来るのはおかしな話だと思った。
「どうしてお金が必要だったのかしら。借金でもあったのかしら。」
「その通りだよ。」
 一馬と裕太が所属したジャズバンドは五人組。活動期間は二年と言ったところだろう。解散の理由は音楽性の違いという話になっていた。だが実際は違う。
「サックスの男ってわかるか?」
「なんか……こう芸能人よね。最近見ないけど。」
 口の立つ男だと思った。だから解散して芸能人のような仕事をしても出来るのだと思う。だが最近は見ることが少ない。
「あいつ借金まみれみたいでさ。ギャンブルの癖が凄いみたいで。」
「ギャンブル?」
「女癖も悪い。でも口は立つから、みんな口車に乗せられて借金の保証人になってたらしいんだ。兄もサインをしたって言ってた。」
「でも花岡さんは借金なんてしてないように見えるわ。」
「花岡さんってのは頭が良いやつだよな。保証人のサインだけは絶対しなかったらしい。でもそれが解散の理由の一つでもあったみたいなんだよ。」
 サックスの男の口車に裕太も乗せられた。しかし一馬だけがサインをしないのに腹が立っていたのだ。だから一馬を陥れた。それが決定的なバンドの解散の理由だったのかも知れない。
 表向きには一馬がバンドのメンバーの女に手を出すろくでなしで、女ったらしでしかも絶倫だという噂が未だにあるのはそのためだろう。
 沙夜もそういう目で最初は見ていた。だが付き合えば付き合うほどそんな人に見えない。ストイックで妻一筋にしか見えないのだ。
「天草さんは保証人になったからお金を返す手段が必要だったのね。」
「そうだったみたいだ。だから、息子のためだからって親もなんとか都合してたみたいなんだけど、俺が大学に行くのに金もかかっていたみたいでキツかったみたいなんだよ。下町の靴の修理と合鍵を作るような小さい店なんだから、難しいよな。」
「そんなお店をしているの?あなたの実家。」
「古いだけだよ。親父一人でしているような所だし。」
 母親はスーパーで惣菜を作っていた。そうやって芹の大学の費用もなんとか工面していたのだ。だが限度があるだろう。
 だから芹はなんとかして、自分で稼ぐ方法を見つけようとした。その時に大学の先輩の紹介で石森愛を紹介されたのだ。
「石森愛ってのは、出版社の人間なんだ。俺みたいなフリーのライターを雇っているような。」
 フリーのライターは書けば書くほど金になる。文章が採用されたらされただけ実入りが良いのだから。
「最終的には学費も親からいらないくらい稼いでてさ。だって一日二,三本書いていたんだから。」
「凄いハイペースね。そんなに書くことがあったの?」
「あるよ。音楽ライターでさ。俺。昔っから音楽は好きだったし、あぁ。そうだった。」
「何?」
「兄さんのジャズバンドの初ライブに行った時さ。「勢いだけじゃ時代に乗り遅れる」って言ったんだよ。ライターの癖だったのかもな。」
 草壁というライターは辛口だと沙夜の耳にも届いていた。だがこのライターの言うことは結構当たっていると、沙夜は思っていたのも事実。実際草壁が辛口な批評をしたバンドは、一,二年で解散したりしていたのだから。
「そこまで稼いでいたんだったら、草壁さんからお金の無心には来なかったの?」
「来たよ。だからずっと断っててさ。」
 結婚したい女がいる。でも自分に借金があったら向こうの親に申し訳が無い。だから必ず返すから、貸してくれないか。
 ずっとそう言われていたが、芹だって大学生活を送りながらライターをしていたのだ。そこまで余裕があるわけでは無い。その上、学費も良いよといったばかりなのだ。見栄を張るのも大概にしないといけないと思ったばかりなのだ。
 その時だった。
 見覚えの無いメッセージがパソコンに届いた。仕事の依頼はこちらからするのが一般的なのに、スカウトに来るのは珍しいと思いながらそのメールボックスを開けた。
 そこにあったのは有名な出版社の名前と、遠藤紫乃という名前だった。その社員の名前だろう。そしてその仕事の内容は、ゴーストライターの依頼だった。
「ゴースト?」
「うん。」
 うさんくさい。そう思っていたが、その報酬額に少し惹かれてしまった。だがうさんくさいというのは、変わらない。
 だから石森愛にも相談してみた。愛もそんなの有名な出版社だったら、報酬が払われないと言うことも無いと思う。一度乗ってみると良いと言ってくれた。ゴーストライターは褒められたものではないのは愛でもわかっていたのだが、その話は芹にとっても勉強になると思ったのだろう。
 しかしそれが間違いだったと芹はずっと後悔していたのだ。
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