触れられない距離

神崎

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ハヤシライス

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 誰も居ないオフィスで沙夜はパソコンに打ち込みをしている。今日の仕事の報告書を書くためだ。
 今日の主な仕事はテレビ出演。他のメンバーはその前にもその後にも仕事があり、それを打ち込んでいく。そしてそれを送信し、その後テレビの反響を見る。やはり目立つのは演奏のこともそうだったが、話をほとんどしていないと言うことだろう。特に翔は女性人気が目立つ。その翔がほとんど話をしていないとなると、不満が募るだろう。
 だが翔のことを考えるとあまり表に出て欲しくない。精神的に脆いところがあるからだ。これでまた病気などが再発すれば、表に出るどころか音楽活動すら危うい。
「どうしたモノか……。」
 そう思っていたときだった。オフィスに植村朔太郎が入ってきた。そしてまだ沙夜が居るのに少し驚いているように見える。
「お疲れさん。まだ居たの?」
「報告書を書いてテレビの反響を見てました。」
「テレビ、良かったと思うけどね。何か問題があるの?」
「あまり話をしなかったからですね。」
 「二藍」の売り込みは、沙夜に一任されているところがある。それ以上のことは上司に相談しているが、その上司は「二藍」をあまり露出させたくないといったところだろう。微妙に隠しているところがあっての人気もあるのだから。
「確かに休日は何をしているとか別にどうでも良いと思うけど、ファンにとっては知りたいところなのかな。うちのバンドもそう見えるけど。うちのバンドでプライベートのことを聞かれたら、さらに嘘の重ね塗りだよ。」
 植村が担当しているバンドは、いわゆるビジュアル系であり設定だって突拍子もないものだ。まことしやかに生き血を吸っているなど、言われていることもある。
「そうなんですよねぇ。」
「まぁ良いじゃ無い。」
 朔太郎はそう言って沙夜のデスクに缶コーヒーを置いた。買ってきてくれたのだろう。
「え?」
「もしかしたら離れるかもしれないんだろう?「二藍」から。」
 その言葉に沙夜は、ため息を付いた。
 数日前に上司から言われていることで、地方にいる少し勢いがあるバンドがあり「二藍」を離れてそのバンドの担当になってくれないかという話だった。動画がアップされていて、その音を聴いてみるが「二藍」ほど洗練されていないしただ勢いだけで乗り切っているように見えた。この担当になり売り込みをするとなると、本当にプライベートを切り売りしないとやっていけないかもしれない。
「気が乗りませんね。」
「まぁ会社が売り込みたいってバンドだしね。本人達の努力もあるけど、俺たちがどれだけバックアップをするかによるかも。」
「……。」
 それでも迷っているようだ。それを見て朔太郎は拳に力を入れる。やはりあの噂が本当だったのだろうかと思っていたから。
「泉さん。」
 朔太郎は隣の椅子に座り、沙夜の方を見る。
「どうしました。」
「噂って本当なの?」
「噂?」
「あの五人と体の関係があるって。」
 その言葉に驚いて沙夜は朔太郎の方を見る。そんな噂があったのかと驚いていたのだ。
「は?」
「芸能事務所からのお達しらしいよ。その人事異動。それが……泉さんが五人と寝ているからだって。そんな女に担当を任せられないって言われたみたいだ。特に栗山さんはあっちの事務所にもいることだしね。」
 その言葉に沙夜は驚いて、朔太郎を見る。
「そんなわけ無いですよ。」
「だったらどうして……。」
 すると沙夜はため息を付いて言う。
「妹がAVに出ていて、あぁいうキャラを売ってますからね。私は双子ですし、同じようなモノだと思われているのでしょう。でも……訴えて良いレベルですね。それ。」
「関係は無いの?」
「あるわけ無いじゃ無いですか。花岡さんと橋倉さんに至っては既婚者ですよ。」
「既婚者じゃ無ければ良いの?」
「だから、そんなことでは無くて。」
 頭を抱えた。まさかそんな理由で移動をさせられるとは思っていなかったからだ。男の中に女が一人居るだけでそんな噂を立てられるとは、沙夜も思っていない。だったら男だらかのバンドの中に女が一人居たら、その女はみんなそのバンドメンバーと関係があるとでも思われるのだろうか。いや、実際は女が男勝りで男を言い負かしているところを何度も見た。
 中身を見てみればそんなモノなのだろう。
「だったら、泉さんが恋人を作れば良いんじゃ無い?」
「私が?」
 こんな地味な女に誰が言い寄るだろう。ここに入社したときに、同期から誘われて合コンというモノに出たことはあるが、そこの中でもかなり浮いていた存在だった沙夜はそんなモノなのだろうと思いながら、一人で帰り道ラーメン屋でラーメンをすすっていたのだが、そんな女に誰が言い寄るだろう。
「付き合わない?」
 朔太郎はそう言って沙夜を見る。しかし沙夜は首を横に振った。
「妹を狙っているのだったら直接言ってください。」
 AV女優をしている妹が居るのは、誰でも知っていることだ。それを目当てに沙夜に言い寄る人だって多い。実際、今日テレビ局で何度も会った慎吾は、沙菜が目当てなのだ。
「俺は泉さんの妹なんか知らないよ。会ったことも無い。俺は……泉さんがいい。」
 その言葉に沙夜は少し戸惑った。こんなに真っ直ぐにそんなことを言われたことが無かったからだ。
「……あの……それは……。」
 だが沙夜は朔太郎をそんな目で見たことは無い。朔太郎は割とこのオフィスの中でも人気がある方だ。明るくてコミュニケーション能力が長けていて、誰でも笑顔で接する。そんな男が、沙夜のような地味な女に言い寄るわけが無いと思っていたから。
「駄目?」
 震えている。それがわかり、朔太郎はその手を握ろうとした。もう少しでいける。やっと沙夜を落とせると思っていた。そのときだった。
「泉さん。」
 オフィスの中に声が響いた。それは治の声で、沙夜は慌てて椅子から立ち上がり治の方を見る。後ろには翔の姿もあった。
「楽器運搬が終わったよ。泉さんは仕事終わった?」
「えぇ。もう帰ろうかと。」
「だったら飯でも行かない?たまにはさ。それに足を怪我しているんだろう?松葉杖でも居る?それとも手でも引こうか?」
「いいえ。そこまではないので大丈夫です。」
 冗談のように治が行ってくれる言葉がほっとする。沙夜はそう思いながら、パソコンをシャットダウンさせると、荷物をまとめた。そして缶コーヒーを手にすると、朔太郎に渡す。
「すいません。もう帰ります。ありがとうございました。話を聞いてくれて。」
「泉さん。」
 先ほどまでの空気を壊したのは、やはり「二藍」のメンバーだった。それに朔太郎は悔しそうに開いた手を握りしめる。
「そこのカレー屋が美味いらしいよ。うちの奥さんが絶賛してた。」
「あぁ。本格的なインドカレーだろう?」
「そっちの人が作っているみたいでさ。ラッシーも……。」
 すると朔太郎が立ち上がり二人に言う。
「担当者とアーティストがそんなにベタベタするモノじゃ無いんですよ。「二藍」さん。」
 その言葉に治は驚いて朔太郎の方を見る。だが冷静だったのは翔の方だったのかもしれない。
「ベタベタ?担当者とアーティストが飯を食べるだけでベタベタしていると取るんですか?」
 翔がそんなことを言うのを初めて聞いた。今度は沙夜の方が驚いて翔を見る。
「……食事くらいは良いかもしれない。だけど三人でって……。」
「それが何か良くないですか。」
 朔太郎はその言葉に、言葉を詰まらせる。自分だって前の担当の女性歌手とは、食事どころか自宅へ行って新曲をあれこれと口を出して、そのまま疲れて眠ってしまうこともあった。だがそれだからと言って手を出したことは無い。
「噂がますます広がるだろう?それがきっかけで泉さんは「二藍」を離れるかもしれないのに。」
 やはりその噂か。翔は首を横に振って言う。
「妙な噂が立っているって聞きました。そのせいで泉さんが「二藍」の担当を外れるかもしれないって。でもそれは真実じゃ無い。泉さんとは「二藍」越しであれば音楽の話しかしないんです。」
「……。」
「噂がまことしやかに囁かれ、それが真実になる怖さを一番俺は知ってる。だから……「違う」って言いたいし、それをせめて事務所の人だけでも信じて欲しいと思っていたのに。」
 その言葉に治は翔の肩に手を置いた。男と女としてだけでは無く、沙夜をそこまで信用しているのだ。だから失いたくないという言葉が、その中に込められているような気がする。
「翔。わがままだろ。人事異動なんて俺らが口を出すことじゃないし。俺らの意見でどうこうなることじゃないから。」
「でも……三倉さんも離れて、泉さんも離れたら絶対「二藍」のテイストも変わる。そうなると、今まで積み上げたモノが壊れるかもしれないのに。」
「壊れたら次にまた積み上げれば良い。五人なら出来るだろ。」
 何があってもバンドを存続させるのだ。それが治の決意だったのかもしれない。
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