触れられない距離

神崎

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鯵のなめろう

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 ジャケット写真を撮りおわり、着替えを済ませると今日の仕事は終わりだ。まだ少し家に帰るのも持て余してしまう。そう思った沙菜はそのままジムへ向かった。裸になるのが仕事の商売で、体のメンテナンスは必須。だからエステだ、美容室だ、ジムだ、ヨガだと撮影以外も結構忙しい。特に胸が大きいのだ。油断すればすぐに垂れてくる。
 今日はお尻を中心に体を仕上げる。男女が入り交じるジムでは、沙菜のような体つきの女性はすぐに声をかけられる。今日もそうだ。
「この後どこか行くの?飲みに行かない?」
「良いところがあるんだ。お酒も美味しくてさ。」
 沙夜が家でご飯を作っていなければすぐに付いていったかもしれない。だが今日は鰺のなめろうだと言っていた。沙夜のご飯はいつも美味しいし、外で食べるよりもカロリーが抑え気味で、太る心配が無い。
「ごめん。今日はこの後予定があってさ。」
 そう言って断ったときだった。見覚えのある人がジムの部屋に入ってくる。それは翔と同じバンドのベーシストだった。見事な体つきで、ボディビルダーとまでは言わないが、沙菜が憧れてこの人と絡みたいと思っていたAV男優に似ている。だがそのAV男優はもうすでに引退していて、今は普通の役者をしていた。そしてその男も妻が居るらしい。後ろには女性の姿があった。奥さんなのだろう。だが飾り気の無いその姿に、やっぱりあぁいう男にはあぁいう女が付くのだと思っていた。自分のように色気や体を売りにしているわけでは無い。
 だが男の方が沙菜に気がついたようだ。奥さんとともに沙菜に声をかける。
「あんた。翔の……。」
「こんにちは。今日はオフですか?」
「午前中だけ仕事があって、午後からは何も無かったからうちのとジムにでも行こうかって思って。」
 やはり奥さんだったのか。そう思って沙菜は頭を下げる。すると女性も頭を下げた。この女性の妹は沙菜と同じ職業をしているらしい。未だに現役を続けていて、昔は沙菜と同じような女王様タイプだったのに、今はマゾヒストにもなれるようでその演技の幅が広い。スカトロ以外はしているらしいのだ。
「翔は今日、CMを頼まれているメーカーに行っているらしいな。」
「あぁ……あなたは知ってたんでしたっけ。」
 翔と同居をしているというのは「二藍」のメンバーは知っている。だがそこから漏れることは無い。かえって一部しか知らなければ、どこから漏れたのかすぐにわかるのでその辺は安心だろう。当然この男の奥さんも知っているのだ。
「うまくいけば良いな。」
「頑張っていたから。」
 翔は音楽関係の仕事を取ろうと躍起になっている。今のように姿だけでちやほやされるのは一時的なモノだと翔自身も知っていたから。
 少し話をして、二人は離れる。そしてそれぞれにマシンを使って体を鍛えていた。それを見ながら、少し羨ましいと思う。自分だって夫婦でこうしたジムへ来たいと思うし、それが翔ならさらに嬉しいと思った。

 その頃翔は車のメーカーでダメ出しを食らっていた。
「もう少しパンチのある曲でお願いします。」
 広報の女性は、翔の作った曲にため息をついていた。「二藍」であること、姿が王子様のようだということ。それだけで起用した人だったが、これではCMで使えないと思っていたのだ。
「はい。」
 音はこだわっているのがわかるが、それを聞き分けられる人といえば音楽に精通しているような人しか居ないだろう。それを求めているのでは無い。もっと聞いて耳に残るようなモノが欲しいと思う。
「曲は悪くないんですよ。でも画像と合わせたらちょっとね……。」
 曲の締め切りにはまだ余裕がある。翔はそう思いながら会社を出て行った。すると後ろからサラリーマンたちが翔の後から出てきて、駅の方へ向かう。おそらく営業とかへ行くのだろう。その後ろ姿を見て少しため息をついた。
 昔、翔もこんなサラリーマンの一人だった。音楽の大学を出て、就職先は楽器のメーカーだった。そこの営業に配属されたが、二ヶ月ほどで辞めてしまった。音楽に携われる仕事だと思っていたのだが、それは全く違ったから。それでも割り切って仕事だからと思っていたが、結局そこでも派閥争いなんかに巻き込まれてしまい、軽いうつ病になってしまったのだ。
 そこから田舎に引きこもり、両親が懇意にしていた茶畑農家を手伝って生計を立てていた。それでも音楽への未練は断ち切れず、自作の音楽をネットにあげた。するとたちまち人気が出てきたのだ。
 ボーカル入りと言っても人工的に声を作成するソフトもある。それで曲を作っていたのだ。そこで声をかけられたのが三倉奈々子だった。
「今度デビューするバンドに入ってくれないかしら。」
 そう言われて、戸惑ったのは事実。だが自分の音楽を買ってくれているうれしさの方が先走ったのかもしれない。その頃ちょうど、両親が外国でコーヒー豆を作りたい、そこで余生を送りたいといいだし、住んでいた家を翔に住ませるようにしたのだ。
 広すぎる家に戸惑っていたが、それでも誰か住まわせれば良いかと楽観的に捉えた。そこが翔の良いところの一つだろう。
 だが「二藍」としては成功したかもしれない。だが個人となれば全くまだまだだった。インターネットでちやほやされたのが嘘だと思うくらい、ダメ出しをされて製品化した曲はまだ数曲しか無い。沙夜は翔個人の曲をリリースしたいと思っているようだが、それはまだ適いそうに無かった。
 落ち込みそうになる。だがそれでも前向きに生きていこう。求めてくれる人がまだ居るのだから。姿では無く音楽を求めてくれる人が。
 そう思いながら翔は、電車に乗るとイヤホンを取り出す。そして音楽プレーヤーを起動させた。そこには「二藍」の曲だけでは無く、自分が好きな曲も入っている。その中に、タイトルなしの曲があった。それは沙夜が作ったモノだった。
 沙夜が作った曲はとても心地良い。本当はこういう曲を作りたいのにとも思うくらいだ。
 電子音を感じさせない音は、とてもナチュラルで人の声が入っていない。それでも沙夜の音はあまり評価されなかったのだという。
「その程度なのよ。」
 沙夜はそう言っていたが、そうじゃない。翔はその良さを十分知っていた。沙夜の音楽にはセンスがある。そしてぱっと耳に付くのだ。
 そう思っていたときだった。駅について、入ってきた人に驚きを隠せない。それは沙菜の姿だったから。沙菜も翔に気がついて、そちらへ行こうとした。だがこんな公共の場で、アーティストとAV女優が並んで座っていれば何を書かれるかわからない。そう思って沙菜も翔も我慢した。紗菜は少し離れたところで立って、携帯電話をいじっていた。
 すると翔の携帯電話にメッセージが届く。それは沙菜からだった。
「今日は仕事だったの?」
 その言葉に、翔は少し笑って沙菜にメッセージを送る。
「仕事。CMの曲を作って欲しいって言われたけど、リジェクトされてさ。」
「大変だね。あたし、ジムの帰り。「二藍」のメンバーの人と一緒だったよ。」
 その名前におそらく一馬だろうと翔は思っていた。体に気を遣う男だから。姿がまだ売りである翔も、定期的にジムは行っているが一馬ほどストイックにはしないのだから。
「ジムは混んでた?」
「そうでも無いかな。平日だし。姉さんも午前中はジムに行っていたって言ってたよ。」
 体を動かすような仕事では無いから、沙夜も定期的にジムへは行っているらしい。体が鈍りそうだというのだ。
「芹に聞かせてやりたいよ。」
「お金を払ってまで運動する意味がわからないって言ってたもんね。」
 芹らしい言葉だ。元々肉が付きにくい体質なのだろう。いくら食べても太る要素が無い。それが少し羨ましいと思う。
「今日は沙夜はどこかへ行ってたのかな。」
 そのメッセージに沙菜の手が震える。沙菜では無く沙夜をずっと気にしているからだ。
「海の方へ行ったって。だから今日は魚らしいよ。」
 その言葉を送ると、翔は少し笑っているようだった。その行動に沙菜は心が痛い。
「刺身が食べたいな。」
「刺身いいね。」
 スタンプを送り、沙菜は少し笑った。だがそれは強がりなのだ。ずっと自分を見て欲しいのに、翔はずっと沙夜しか見ていないのだから。
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