夏から始まる

神崎

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 何度か電話をしたがなかなか繋がらなかった。だが蓮がステージにあがっているとき、やっと電話の主は繋がった。
「もしもし。圭吾?」
「仁か。」
「……今は百合よ。」
 百合はそういって煙草を取り出すと、それをくわえて火をつける。
「もうヤクザとは関係ないといっていたのに、何の連絡をしてきたんだ。」
「話は一つよ。そこに菊子ちゃんがいるのかしら。」
 圭吾はその名前に、気を失うように圭吾の腕の中で倒れ込んだ菊子をみる。
 風呂から上がり丁寧に体を拭いた。思わず胸や性器に触れようとしたとき、いたずらをしてみたくなったがそれは菊子の意識が戻ってからでも良い。
 反応がない相手を相手にしても面白くない。下着や生理用品だけは買ってきてもらったが、服は自分のものを着せた。少し大きめのサイズだし、菊子が自分の匂いに染まるようで気分が良い。
「いる。さっきまで感じまくっていてな、今は意識が飛んでる。」
「あなた……薬でも使ったの?」
「そんな真似をしなくても十分だ。こいつに薬を使ったりしたら、腹上死する。」
 死なせたくはない。そう思いながら、圭吾はその菊子の下ろされた髪を避けて、頬に手を添える。
「蓮のことを知っててそんなことを?」
「最初から蓮から奪う気だった。だからあいつを近づけたんだ。美咲の時とは少し違うという話も聞いていたし、それだけ絆が強ければ手を出さないで置こうと思っていたのだが……そうでもないようだ。」
 それでも菊子は最後まで拒否をしていた。体は感じていても、口からは「いや」とか「抜いて」とか拒否をすることしか口にしない。
 その態度がさらにかき立てられる。
「連だってそうなんだろう?」
「え?」
「そっちにわかるように菊子を連れ去ったつもりだが相変わらずステージに立っているか、音楽のことしか頭にないのだろう?」
「仕事だもの。」
「そうやって前の女をおざなりにした。」
「……。」
 それを言われるとつらい。
「とにかく……もうそっちに渡す気はない。所詮、どこの腹の子供かわからないのだし、菊子は連れていく。」
 百合は煙草の灰を落として、圭吾に言う。
「坂本組の若頭になるって事かしら。」
「あぁ。」
「うまくいけばいいわね。」
 百合はそういって電話を切った。そして煙草をもみ消す。カウンターに戻ると、その席に一人の女が座っていた。
「あら。」
 女の足下にはキャリーケースがある。それはオレンジ色だった。前のキャリーケースは、警察に押収されていたから。
「もう行くの?」
「えぇ。九月にわたる予定でしたから。予定通り。だけど……。」
 女の目から涙が落ちる。その様子に百合は氷をいれたグラスにトニックウォーターを注ぐ。
「この一杯はあたしの餞別にするわ。」
「ありがとう。あなたにはお礼を言わないといけないと思ってたから。私、あなたたちに助けられたし。」
「……ねぇ。知加子さん。本当にいいの?本気で好きだったんじゃないの?」
「武生君のことは良いんです。」
 そうではないと自分が捕まった意味がなくなってしまう。
「武生君は若いから……また新しい人を見ることが出来る。あたしは。日向子さんの夢を受け継いでるし。」
「……。」
 ヤクザの娘だからたぶん普通の幸せな結婚は出来ない。だから青年海外協力隊に行ったときも、背中を押してくれたのが日向子だった。
「あたしが……あのときレイプされそうになったのも、偶然じゃなかった。もちろん、武生君に近づいたのは一番村上組にとって面白くなかったかもしれないけど、日向子さんと繋がっているのも気にくわなかったのね。」
「汚い世界。だからあたしも関わりたくなかった。だけど……。」
 何も知らないでベースを弾いている蓮を見ると心が苦しい。蓮にどう伝えればいいのかわからないから。
「限界なのかもしれないわ。」
「百合さん。」
 知加子はその表情を見て少しぞっとした。見たことのない男の顔だったからだ。

 夜中の便を選んだのは、少しでも交通費を安くしたかったから。目指す国はアフリカ。直行便はなく、一度ヨーロッパで乗り継ぎがある。何十時間もかけていくのだ。
 今回逮捕歴が出来てしまった。誤認逮捕で、罪にはならなかったが疑いがかけられたのは事実。
 それを良しとしない国もあるだろう。いける国が今回は決まってくるが、そもそもそんなに厳しい国には行かない。知加子が行くのは発展途上国が中心なのだから。
 そして祖父母に会いに行く。そして南米のジャングルが急速に失われていたのを、苗木からまた植えて欲しいと願ったのだ。最初は一人、二人がしていただけだが今はその人数は何十倍にの膨れ上がった。
 緑は財産だ。今は苗木でも、自分の子供、孫の世代には大きく成長しているはずだから。
 そう思いながら知加子は出国ゲートを通過しようとした。そのときだった。肩を掴まれて、振り返る。そこには武生の姿があった。
「武生君……。」
「黙って行かないでよ。」
「……。」
 ここで会ってしまったらいけない。今までのことが全部消えるのだ。
「武生君。もう行かないと。」
「知加子。渡したいものがある。」
 武生はそういって知加子の指に指輪をはめた。それは銀色の鈍い光をたたえていた。
「……俺も追いつくから。」
「……。」
 その言葉に知加子はもう押さえきれなかった。武生の体を抱きしめる。前に抱きしめたときよりも背が高くなった。そして体つきが男になった。
「うん……待ってる。」
 武生はその体を抱きしめる。ずっと抱きしめたかった体だった。
「……武生君。あたしがここを出たら、すぐに……。」
 放送が流れて、知加子は武生の体を離した。
 そして出国ゲートへ入っていった。その背中を見て、武生はその温もりを忘れないようにぎゅっと拳を握る。
 だがその背中が見えなくなり、武生は携帯電話を取り出す。
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