夏から始まる

神崎

文字の大きさ
上 下
255 / 265
告げる

255

しおりを挟む
 八月最後の日だという事で、去りゆく夏を惜しむかのようなメニューが「ながさわ」の今日のメニューだった。なすの味噌田楽、オクラの煮浸し、鰹のたたきなど、相変わらず魚と野菜が中心で、しかもその一つ一つに手が込んでいる。
 朝顔の間へ菊子はメインである煮穴子を持って行く。山椒の実がちりばめられているのは、二皿だけ。四人で来ている客のうち二人は子供だったからだ。
 カウンター席もあるが個室になると、部屋代として料金が加算される。その部屋も部屋によってランクは違うし、床を用意するとなればさらに料金は追加される。
 朝顔の間には床は用意されていない。部屋代も他の部屋と比べるともっとリーズナブルで、「ながさわ」の中では敷居が低いとも言える。そこへやってくると、ドアを開けて声をかける。
「失礼いたします。」
 料理を持って中にはいると、そこには白髪交じりの男。その娘と言っても良いくらいの年齢差のある女。そして二人の男の子は、上がおそらく小学生くらい。下はまだ幼稚園と言ったところだろう。
 男はあまり常連というわけではないが、見たことのある男だ。どこかの大学の講師をしているらしい。この二人は夫婦になるのだという。
 女が大学を卒業して程なく男と結婚し二人の子供ができた。だが女の夫は酔うと性格が荒くなるらしく、女に手を挙げることもあり女は子供を連れて出て行ったのだ。
 そして子供を育てるためには言った水商売で、その男と再会した。
 育ちに格差がある。年齢差もある。それに男は初婚だ。親戚は良い顔をしなかったそうだが、男の意志は硬かった。
「煮穴子でございます。」
 皿を差し出したが、子供の表情は浮かない。おそらく魚よりも肉が食べたいのかもしれないし、そもそも魚を食べ慣れていないのかもしれない。
 そのときふとこの間の棗の言葉が蘇った。
「魚も悪くないが、若い人に受け入れられようと思うんなら獣肉も出すべきだ。」
 肉を出さないわけではない。だがそれは漁が出来なかったときのただの一時的な対策だ。それもがっつりステーキを出すわけではなく、たたきなどに限定される。
 その対策に皐月や葵が棗の指導の元で試行錯誤しているが、大将も棗もまだうんとは言わない。
「美味しいな。ふわっとしている。」
「山椒がよく利いてますね。」
 大人たちには好評だ。しかし子供たちの表情はまだ浮かない。だが茶碗蒸しを持ってきたときは、とても喜んでいるように見えたのだが。
 空の皿をお盆に乗せて、菊子は部屋を出ていく。
 この店は確かに子供連れというのは少ないが、居ないことはない。そして子供はこの店をどう思うだろう。
「……。」
 空の皿を厨房に置くと、次の部屋へ料理を持って行く。
 厨房には大将が棗と肩を並べて料理をしている。だが足はまだ不自由らしく、そのカバーを棗はしながら自分の料理も仕上げていた。
「葵。その皿待って。」
 配膳に置こうとした葵が持っている皿に、棗は近づいて鰹の粉をかける。
「忘れんなよ。タコ。」
「すいません。」
 大将だけではない、葵の仕事も皐月の仕事にも口を出している。その動きに菊子はやはり関心した。これだから人が着いてくるのだろう。
 料理を持っていこうとしたとき、女将さんが奥の部屋から出てきた。
 「ながさわ」で一番良い部屋は、山桃の間という少し広めの部屋になるが、それよりももっと高い部屋がある。それは夕顔の間といい、他の客にここに来ていることを知られたくない客がこっそりやってくる部屋だった。
 料理の質も他の部屋と一緒で、床を希望すれば用意することもある。だが料理を運んだりするのは女将だけ。そしてその料理は大将が作るものしか提供しない。そして菊子を初め他の仲居も、厨房にいる葵も皐月もそこには誰が来ているのかわからない。
 裏口からそっと入り、そっと帰って行く。ここに来ていることすら他に知られてはいけない。
「大将。料理はゆっくりめで良いそうですよ。」
「わかった。」
「熱燗をもう一本追加して。」
「はい。」
 葵はそう言うと、とっくりに酒を注いで熱にかける。
 女将さんは珍しく疲れているようにため息を付いた。気を使う客なのだろう。
「菊子。」
 厨房からふと棗に声をかけられる。その声に菊子は振り返った。
「はい。」
「朝顔の間にこれを持っていけ。」
 そう言って棗は冷蔵庫から二つ、ガラス製の切り子の器を出した。蓋がついていて、それをあけると乳白色でプルプルしたものがある。その上には白いホイップクリームが綺麗に盛られていた。
「プリン?」
「そう。プリン。朝顔の間に子供がいるだろ?持っていけ。」
「はぁ……。」
 ちらりと大将を見るが、大将は何も言わなかった。茶碗蒸しを作っているときに何か違うものを作っていたのはわかっていただろうに、棗のその行動には口を出さなかったのだ。
 デザートスプーンを二つお盆に乗せると、他の料理とともにプリンもまた持っていく。
 他の料理を他の部屋へ持っていき、そして最後に朝顔の間の前につく。そして先ほどのようにドアを開けると、子供たちはさらにつまらなそうに目の前のアナゴを箸でつついていた。美味しいのはわかるのだろうが、普段食べ慣れていないものだ。
 それはその男の前の女もそうなのかもしれない。子供がいるだけに料理はしているのだろうが、さすがにアナゴを料理することはない。
「これは?」
 切り子のガラスで出来た器をテーブルに載せると、子供たちの前に置いた。
「余計なことかもしれませんが、板前が子供さんたちのためと用意しておりました。」
 すると子供たちはいぶかしげに、その蓋を取る。するとぱっと顔が明るくなった。
「プリンだ。」
「美味しそう。」
「駄目よ。ご飯の後に食べて。」
 女がそう言うと、子供たちは笑顔でうなづいた。
「食事はあと何品出るのかしら。」
「あとはご飯ものです。今日はチラシを用意してます。」
「じゃあ、ご飯のあとに食べましょうね。」
 母親らしい言葉で女が言うと、子供たちは深くうなづいてその蓋をちらちらとあけてみている。それを早く食べたいと思っているのかもしれない。
 しかし男の方がいぶかしげな表情になった。
「「ながさわ」でプリンね……。子供に媚びるような店ではないと思っていたのだが。」
 その言葉に菊子はちらりと男をみる。そうだ。昔からの客は、この「ながさわ」の品格やなかなか手のでない高級感に惹かれてきている人もいる。
 それがプリンなどを出していると、やはり媚びているととらえられても仕方ないのかもしれない。
 確かにプリンは卵と牛乳、砂糖で茶碗蒸しのついでに蒸せばいいものだ。手軽に出来るし、ついでに作るという事も出来る。だがそれは厨房の都合であり、この非日常の世界を堪能したい人にとってこの行動は、余計なことだったのだ。
「……すいません。余計なことを。」
「いいや。そんな意味ではない。」
 男はあわてて弁解しようとしていたが、菊子はやはり余計なことをしてしまったと後悔していた。自分が止めることも出来たのだろうに、どうして素直に持ってきてしまったのだろう。
「先生。いいんですよ。あたし、こういうの好きですから。」
「君……。」
 すると女は言葉を続ける。
「やっぱり敷居が高いなって思ってたんで、子供たちのために顔合わせって言うんだったらファミレスとかでも良かったんですけどね。」
「うちの妻になるのだから、そんなところに慣れてもらっても……。」
「えぇ。先生の生活に合わせていかないといけないんですけど、徐々に慣れていくんだと思えばいいと。でも……やっぱり少し疲れたのかな。」
「……。」
「こういう気遣いをしてくれるのって嬉しい。」
「……そうか。悪かったね。心理学を勉強している割に、その辺に気づいてやれなかった。私もまだ勉強が必要だな。」
 そう言って男は笑顔を浮かべた。それを見て菊子は席を立った。
 敷居が思ったよりも低いんだね。そう言われることも多い。だが、いろんな客がいる。高級感を求める人には余計なことかもしれないし、口うるさい人もいるだろう。
 棗がここにいる期間はもう少しある。その間、棗が暴走しないようにしないといけないだろう。
 そう考えながら、菊子はふと足を止めた。
「何で私が……。」
 その複雑な感情に、菊子は戸惑っていた。
しおりを挟む

処理中です...