夏から始まる

神崎

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恋人と愛人

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 棗は孝や皐月、葵が仕込みをしている隣でフライパンで肉を焼いていた。それはステーキ用のヒレ肉で、あまり脂身は少ない。
 そしてそれを取り出すと、包丁でそれを一口大に切る。皿に盛りつけると、大将の前にそれを置いた。
「良く焼けてないように見えるが。」
「中には火が通ってますよ。レアだからって生ってわけじゃない。こっちの国でも「たたき」ってあるんでしょ?」
 菊子も心配そうに厨房をのぞいた。棗が何をしようとしているのか、わからなかったからだ。
 そして棗は、コップに酒を注ぐ。一つはこの店で肉を出すときに使う酒。だがここの肉料理は、割と煮込んでいるものが多いので油の多い魚を出すときと兼用だった。
 もう一つは、棗が「吾川酒店」で注文した酒だった。
「味付けは塩だけと、何もついてないヤツ。そっちは生姜醤油につけて食べてみてください。」
 葵もそれを口にしようとして、皐月が止めた。
「お前は酒は駄目。菊子さんも駄目ですよ。」
 様子を見ていた菊子は、頬を膨らます。孝は仕事前に酒を飲むなんてと思っているのかもしれないが、大将もいるのだから問題はないのかもしれない。しかも一口だけだ。
「生姜醤油につけて出すのだったら、うちで使ってる酒でも悪くない。」
「生姜が生臭さを消してますからね。塩の分、どうですか。」
 塩だけで味付けをした肉を口に運び、そして酒を口に運ぶ。
「うわっ。べとべとする感じ。」
「全く酒と合ってないな。肉にあまり脂がないと言っても、魚の脂とは別物だからな。」
 それは大将も思っていたらしい。何も言わずに顔をしかめただけだった。
「じゃあ、こっち飲んでみてください。」
 再び肉を口に運び、そして酒を流し込んだ。
「魔法ですか?ぜんぜん脂っぽさが無くなった。」
「きっと甘くないからだろう。すっと喉に入っていく。次の肉に手が回りそうだ。」
 孝も皐月も感動したようにそれを口にするが、大将を見て黙ってしまった。コレでは棗の思うつぼだと思ったから。
「うちはステーキなどださんよ。あくまで和食の店だ。」
「でもたたきくらいは出すでしょう?」
 その言葉に大将は黙ってしまう。確かに海が不漁が続けば、魚の代わりに肉を出すこともある。だがそれはあくまで代わりだった。それに準じた酒を用意することはない。ビールすら生ビールはないのだから。
「鉄板焼にしろとまでは言いませんけどね、鶏肉にしても豚肉にしても牛肉にしても、最近はみんなよく食べますよ。魚離れって言うんですかね。なのに魚を提供し続ければ、店が廃れるのは目に見えます。」
 その言葉にいすに座ったままの大将がうなってしまった。その様子を見て、女将はすっと前にでる。
「迷うことはありませんよ。大将。この店を存続させるか、それとも閉めるのかはあなたの自由だと言ったじゃないですか。」
「……。」
「そりゃね、菊子さんに婿養子に来てもらうような職人さんがいれば、そういうことに手を出すことも出来るでしょうけど、あなたの代で閉めるのだったら、あなたの好きなようにすればいいでしょう。」
 その言葉に棗は驚いていた。まさか閉店など口にするとは思ってなかったから。
「うん……そうだな。」
 ちらりと菊子をみる。菊子は料理人になりたいのだという。だが女で和食の道は厳しい。それに子供でも出来ればなおさらだ。子供を背負って調理場に立つこともあるかもしれないが、不器用な菊子にそんな事が出来るとは到底思えない。
 そうなってくると、面倒を見る人が必要になってくる。菊子の両親は相変わらず世界を飛び回っている。この国には帰ってくることはないだろう。そして自分たちも歳を取った。菊子の子供を面倒見るような余裕はない。その時、一番寂しいのは菊子の子供だ。
「大将。」
 そのとき皐月はずっと思っていたことを口にする。
「菊子さんがここに戻るまで、俺がこの店にいます。」
「弟子だからな。止めはしない。」
 大将はそういってまた考えを巡らせていた。だが皐月が言いたいのはそういうことではない。
「俺が大将の代わりをします。」
 すると棗はこらえきれないように笑った。
「お前、婿養子にでもなる気か?」
 そんな意味だったのか。いぶかしげに大将も女将さんも皐月をみる。
「そうじゃないです。菊子さんが戻るまでここでやらせてください。」
 いっぱしの職人になるまで。いずれは手を放れてどこかに店を構えるのだろうと思っていた。だが皐月はここにいるという。
「いいんですか?皐月さん。」
「俺は両親が居ませんし、誰も止める人は居ませんから。」
 すると葵も手を挙げる。
「俺もそうします。」
「葵……。」
「俺も身内居ませんからね。どうしようと自由だと思うし、それに店を出すほど頭も良くないから。中卒だし。」
 棗はその葵の答えにさらに笑った。
「俺も中卒だよ。葵。」
「え?」
「別に商売って頭じゃねぇよ。どれくらい客を満足させるか。五千円出して五千円以上なら客がまた来るし、それ以下なら来ない。それに重要なのは先見の目だ。」
「先見の目?」
「目新しいものを喜びたがるからな。それから……。」
 ちらりと菊子をみる。
「どれだけ気遣いの出来る仲居がいるかどうかだな。」
 そう言って棗は皿にあった肉を、葵と菊子に手渡した。
「お前等も酒飲めなくても食って見ろよ。」
 するとつまようじを出して、それを葵は口にする。
「美味しいですね。何だろう。いい肉なんですか?」
「んにゃ。そこのスーパーで買ってきたヒレ肉。コレ千円もしないんだから、よその国の肉も侮れねぇよな。」
 棗はそういって自分で肉を口にした。
「知ってるか?牛肉って食べるだけで「幸せ」って脳が勝手に思うんだとよ。」
 そういって棗は菊子をみる。やはりばれていた。しかし菊子はその視線を無視するように、何も付いていない肉に生姜醤油を付け口に運んだ。
「わかった。葵、皐月。獣肉のことはお前等に任せる。棗君がいる間、きっちり考えておきなさい。」
「はい。」
 すると棗は呆れたように言う。
「どんだけ俺をこき使うんですか。」
「居ていいと言ったのはあなたですよ。菊子さんにかまわずに、しっかり教えてくださいね。」
 やり手婆が。棗は心の中で悪態をついて、皿を下げていく菊子をみた。やはりどこか不自然だった。あの香水の匂いといい、何かあったに違いない。
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