夏から始まる

神崎

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恋人と愛人

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 しばらく菊子の勉強を見ていた圭吾は、不意にため息をついた。
「どうしたの?」
 その声が聞こえたのだろう、武生も梅子も振り返った。
「菊子、武生に比べれば落ちるけど、勉強できる方でしょ?」
 梅子はそういっておどけて見せた。だが圭吾のため息の訳はそんな問題ではない。
「いいや。菊子ちゃんは出来が言い方だと思うよ。何で大学行かないかなぁって思うし。ただね。」
「ん?」
 武生はお茶を飲みながら圭吾をみる。
「俺が現役の時とはテキストが違いすぎて、教えるの難しいなって思って。」
「あぁ。だったら圭吾兄さんが使っていたヤツがまだあるはずですよ。」
「そんなものまだ取っておいたのか?」
「内容は変わらないでしょ?取ってきたらいいのに。」
「武生。どこにあるんだ。」
「確か、離れの倉庫ですよ。母さんがいつか俺が使うかもって言ってたから。」
 武生の母親は、義理の母に追い出されたようなものだった。愛理のように自分の欲望に正直な人ではなかったせいで、愛理が出て行ったあとは武生に連絡がたまにある。
「そっか。だったら取りに行こう。ついでに何か面白いものがあるかもしれない。」
「面白いもの?」
 梅子はきらきらした目で圭吾を見る。
「武生のお宝写真とか。」
「やーだぁ。でも見たい。」
「駄目だって。何言ってるんですか。兄さん。」
 その様子を菊子は冷えた目で見ていた。良くもまぁこんなに取り繕えるものだ。
「菊子ちゃんも来るかな。」
「え……私がですか?」
 意外な言葉だった。だが教えてもらっているのだ。仕事もあるのだろうに、わざわざ時間を割いてもらっている。それをむげには出来ないだろう。
 だが二人っきりになったら何をするかわからない。さっき軽くキスをしてきたのだ。いつ振り返ってもおかしくない状況で。さっき謝ったのなんか、本心ではないのだ。いつでも手を出そうとしている。きっとそうだ。
「そうだ。菊子は行った方が良いよ。」
 何も知らない武生は、そういって菊子をみる。
「何で?」
「倉庫にレコードがあるんだ。兄さんが昔集めていたヤツ。」
「そんなものまで取っているのか。ちょっと保存状態も気になるけど、見てみる?」
 いつもだったら一つ二つ返事で行くと言っただろう。だが今はそれすら拒否しそうだった。だがここで行かないと言うのも不自然だろう。ここは軽くほいほい来れるところではないのだから。
「わかりました。行きます。」
 心の中で笑う。やはり警戒心がない。所詮お嬢様なのだろう。

 離れへはサンダルではなく下駄を用意してくれた。草履に離れているが、下駄は滅多に履くことがない。
「コレしかなくてね。歩きにくい?」
「大丈夫です。」
 家では大将が仕入れの時以外は下駄だ。小さい頃は真似をして履いたこともある。懐かしい感情が浮かんできた。
「こっちだ。」
 家の表側は立派な庭があったが、裏側になると洗濯物なんかも干していて普通の家のようだ。その片隅に小屋がある。
 圭吾はそこに近づくと、ドアを開けた。最近はあまり使われていないらしく、ドアがきしんだ。
「ここは……何になるんですか?」
「親父の愛人とかが住む所かな。愛人に子供が出来たら、しばらくここに住まわせて、子供だけ置いて出て行かせるんだ。あとは、気に入った愛人をただ住まわせていることもあるけど。」
 中は、土間になっている。続き間に小さいキッチンがあり、冷蔵庫や電子レンジもあり、奥にはトイレや風呂場があるようだった。
 そして部屋を上がると、畳敷きの部屋があった。部屋は二つ。居間と寝床らしい。その寝床の奥にもう一つ扉がある。そこを引くと、所狭しと物が置かれていた。段ボールや衣装ケース、シーズンオフのストーブなんかもある。
「どこだったかな。詳しい場所を聞いておけば良かった。」
 段ボールには「武生、中学生」などと名前が書いている。おそらく奥へ行けば行くほどその人のものの古いものがあるのだ。
「……アレ?」
 奥を見ると、見覚えのない名前があった。それは「仁」と書いてある。
「仁って……。」
「あぁ。本当なら一番上の兄だな。でも正妻の子供じゃない。だから育ったけど三つか四つくらいかな。俺が生まれる前に、母親ともども出て行ったらしい。」
「長男なのに、そんなこともあるんですね。」
「まぁ、そのあとその愛人は他の人と結婚して、また子供を何人か産んだって聞くよ。」
 幸せならそれでいい。そう思える。
 そして圭吾は一つの段ボールを取り出した。その段ボールには、「圭吾、高校」と書かれてあった。それを開くと、古いテキストがある。
「カバーが変わってるし、教え方も違うかもしれない。だけどゴールは一緒だ。参考にはなると思うよ。」
「ありがとうございます。あの……借りていいんですか?」
「武生は使わないって言ってるし、俺も使う予定はないから良いよ。」
 圭吾が使うことはないだろう。その言葉に菊子は少し笑った。そしてテキストをめくる。すると圭吾の几帳面な文字が飛び込んできた。
「文字が綺麗ですね。」
「あぁ。勉強しかしていなかったしね。イヤでも綺麗になるよ。」
 そのときテキストから何か紙のようなものが落ちた。それを拾い上げると、どうやら写真のようだった。
「写真?」
 制服姿の圭吾だった。どうやら今、菊子たちが通っている学校と同じ学校へ通っていたらしい。だが制服は学ランだった。そして隣にはセーラー服の女性が写っている。髪の長い綺麗な女性だった。
「あぁ。つまらないものを見せてしまったな。」
 そう言って圭吾はその写真を取る。
「彼女ですか。」
「その通りだよ。昔は恋人も作っていたけどね。」
 チラッとしか見ていなかったが、圭吾はずいぶん武生に似ている。省吾とはあまり似ていない。
「今は何をしてらっしゃるんですか?」
「さぁね。最後に同窓会に顔を出したときは、子供が二人居るって言ってたかな。」
 圭吾にもそんな甘酸っぱいことがあったのだ。簡単にキスをするような人ではなかった。
「……どうして……。」
「ん?」
 菊子は立ち上がると、そのテキストを持って倉庫を出ていこうとした。しかしそれを圭吾が止める。
「夕べ、蓮から言われたんですよね。手を出すなって。」
「……言われたね。」
「だったら……。」
「黙っていればいいじゃない。菊子ちゃんはそういうの得意だろう?」
 その言葉に菊子はテキストを手にして、圭吾の体に打ち付ける。
「バカにして!」
「ごめん。ごめん。言い過ぎた。」
 すると菊子の目に涙が溜まっていた。好きでしているわけじゃない。蓮としかキスをしたくない。なのにどうして無理矢理奪おうとするのだろう。
 打ち付ける手を握られる。そして圭吾を見上げたとき、その顔は滲んでいた。圭吾はゆっくりとその手を離して、涙の流れる頬に手を添えた。
「ごめんね。俺、口に蓋は出来なくてね。」
「……変えた方が良いですよ。」
 頬に置かれた手が、ゆっくり後ろ頭に添えられた。そして圭吾は菊子を見下ろす。
「こっち見て。」
「やです。」
「むくれなくて良いから。」
「やです。」
「だったら向かせるようにするから。」
 圭吾は少しかがんで、素早く菊子の唇にキスをしようとした。しかし菊子の腕が圭吾の体を突き放す。その力で圭吾は後ろにのけぞった。
「イヤです。」
「強情だね。でもそういうのが良い。無理矢理でもしたくなる。」
 ドアの方まで下がる。ドアノブに後ろ手で手を触れた。すぐに逃げれるはずだ。圭吾の目が怖い。自分に伸ばされる腕に捕まれば終わりなのだと思う。
 ドアノブを握り、それを思いっきり引いた。しかしドアは開かない。
「あれ……。」
「そのドアは、こつが必要なんだ。菊子ちゃんには開けれない。」
 そんなわけがない。菊子はドアの方を向いて、ドアを一生懸命引こうとする。しかしびくともしない。鍵でもかかっていると言うより、滑りが悪いだけのように見える。
「開けて。誰か。」
 声を上げた。しかししんとしたものだ。誰もいないように感じる。
「無駄だって。離れなんだ。しかも誰も使っていない。うちのものでも寄り付かないよ。」
 耳に吐息がかかり、ますますぞくっとした。このままではただで済まない。
 そのとき菊子の背中に温かいものが、伝わってきた。腰のあたりを見ると、腕が伸びてきている。
「まだ消えていないね。」
 おもむろに圭吾はその跡のついている首筋に唇を寄せた。
「や……。」
 思わず身構えてしまう。体を堅くして、せめて自分の身を守ろうとしているのだろう。そんなことをしても無駄だ。
 首筋から唇を離すと、その上に唇を寄せた。耳にぬめっとした温かい感覚が伝わる。
「ん……。」
 腰を片腕で支えて、片腕で顎を押す。すると簡単にこちらを振り向いた。その目は怯えている。さっきキスをしたことで、覚悟をしていただろうに何もされないとでも思ったのだろうか。甘い女だ。
 だがその怯えた目が圭吾をゾクゾクさせる。
 首を支えて、唇を重ねようとしたときだった。
「兄さん。わかりますか。」
 武生の声が聞こえた。その声に圭吾は軽く舌打ちをする。
「あぁ。見つかったよ。レコードを探していたんだけどな。」
「愛理さんが捨てたのかもしれませんね。」
「仕方ないな。興味のない人にはただのがらくただし。すぐ戻るから、先に戻っていろ。」
 声だけでは何が起きているのかわからないだろう。だがやめるつもりはない。遠ざかっていく足音を聞いて、圭吾はおもむろに菊子の唇にキスをする。
「や……ん……ん……。」
 声が漏れる。それだけ抵抗しているのだろう。だが顎を押さえて、口を強制的に開かせると、その舌を絡ませた。
 全く馴れていない。だからかもしれないが、何度もしたくなる。唇を離して、菊子をこちらに向かせるとさらに唇を重ねた。頬に当てられた手が濡れる。泣いているのだ。それを優しく拭い、何度もキスを重ねた。
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