夏から始まる

神崎

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恋人と愛人

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 確かに武生の友達とは聞いていた。だが、家に来るまで深い仲だったのだろうか。確かに幼なじみではあるが、高校生になってまでお互いの家を行き来することがあり得るのだろうか。
 日向子はキッチンで余ったパウンドケーキを包みながら、気が気ではなかった。
「日向子さん。」
 そのとき急に声をかけられた。振り返るとそこには、菊子の姿があった。
「……菊子さん……。」
「お客様のことですから、私は何も言いません。その方が幸せになれるのでしょう?」
 店を一歩出れば他人だ。親しくしたい人もいるだろうが、床を用意しているような料亭ではそれも限られたお客様だけ。その大多数は、見かけても声をかけないで欲しい人ばかりなのだ。
「省吾さんは……たまにいらっしゃいますか。」
「えぇ、たまに。なので……いらないことは言いません。」
「省吾さんは女性を連れてくることは?」
「……圭吾さんほどでは。省吾さんがうちの店を利用するときは、たいてい男性と一緒の時が多いです。」
 そうだった。そんな男なのだ。圭吾ほどスマートに女を口説くことも出来ないわりに、権力だけは人一倍欲しがる。
「ですが、どこから漏れるかわからないのがこの世界です。おとなしくしておいたほうが身のためでしょう。」
 その言葉に日向子はぞっとする。この女は何を知っているのだろう。まさか、武生と寝たことも知っているのだろうか。
「菊子さん。武生さんから何か聞きましたか。」
「いいえ。何も。でも……武生は、前に戻ったように感じたので。」
 菊子はそれだけを言うと、キッチンを離れた。さすがに少し長く話しすぎたかもしれない。武生や梅子が不信に思うだろう。早く戻らなければ。
 武生の部屋のドアを開けると、自分の居た席にもう一人男が座っていた。
「ん?」
 それは圭吾だった。スーツの上を脱いで、白いワイシャツを着ていたが、そこから透ける入れ墨が背中から薄く見えていたからすぐにわかった。
「菊子ちゃん。」
「あ、夕べはお世話になりました。」
「いいや。こっちが悪いことをした。あのあと、「rose」へ行ってね。蓮からだいぶ文句を言われた。組を変えると脅されてね。」
「まぁ……。」
「こっちも上納金が入らなくなるし、それは勘弁して欲しいと思ったから、素直に謝ったよ。」
「いいえ。こちらこそ、隙のあるような態度を見せて申し訳ありません。」
 その言葉に武生は少し驚いたように二人を見ていた。圭吾がこんなに素直に謝ることがあったのだろうかと。時と場合によっては確かに頭を下げることも、土下座をすることもあるのだろうが、こんな高校生に素直に謝ることが意外だったのだ。
「お礼と言っては何だけど、新学期があってすぐに試験があるんだろう?俺でわかることがあれば、教えようか。」
「あ。ありがとうございます。」
 これで武生は梅子に集中できる。少しほっとして、それを見ていた。
「でも机が狭いね。菊子ちゃん、机に来て。いすを持ってくるから。」
 そう言って圭吾はいったん外に出て行った。
「相変わらず優しいね。圭吾さんは。」
「そうかな。最近は良く帰ってくるけど、少し前までちっとも家に寄り付かなかったからね。何があったんだろう。」
 だが菊子は不安そうに武生に聞く。
「圭吾さんって……大学を主席で入学して、首席で卒業したんでしょ?」
「そうらしいね。」
「やだ。バカだって思われる。」
 すると武生も梅子も笑って菊子を見上げる。
「そんなこと思わないよ。俺は言われるけど、女の子に対してそんな暴言を吐かないと思う。」
 そのとき折りたたみのいすを圭吾は持って部屋を訪れた。
「どうした。」
「菊子がさ……。」
「あーもう。言わないで。」
 その言葉に、ますます武生も梅子も笑っていた。

 ローテーブルを背中にして、勉強机に菊子は座る。その隣に圭吾が座った。そして丁寧に勉強を見てくれる。
「あぁ。なるほど。それを使えば……。」
「だろ?結構簡単なんだよ。」
 圭吾はちらっと後ろを振り返った。どうやら武生は梅子を教えることに集中できているようで、こちらを見ようともしない。それは梅子も一緒だ。問題を解くのに必死になっている。
「圭吾さん。ここなんですけど。」
 菊子はテキストを圭吾の方へ向ける。すると圭吾はそれを見ようと体ごと菊子に向けた。するとお互いの膝が当たる。
「……これはね、この計算式を入れて。」
 言葉は真剣に数学を教えているだけのように聞こえる。だが距離が近い。だが教えてもらっているのだ。ここで拒否をしたら変だろう。
「あぁ……そういうことだったんですね。」
 テキストを取るふりをして、菊子はその距離を離す。
「そういえば、この問題だけど。」
 だが離そうとしたテキストを指さすように、圭吾が再び寄ってくる。香水の匂いとタバコの匂いがした。蓮がつけているものよりももっと甘い匂いだし、タバコの匂いも違う。
「……圭吾さん。あの……。」
 もう一度武生と梅子の方をみる。こちらを振り返る気配はない。それを良いことに、圭吾はペンの先で指先をつついた。
「や……。」
「どうしたの?この問題難しいかな。さっきの応用だけど。」
 ここで変に声を上げたらおかしいだろう。菊子も振り返って二人をみる。だが二人は全くこちらを振り返らない。
「たぶん、リスニングもあると思うよ。確か……このサイトのヤツだったと思うけど……。」
 携帯電話を取り出して、イヤフォンを取り出す。そして二人はそれを方耳ずつはめた。方耳は塞がれていないが、そっちの方に集中しているだろう。ますます菊子の方は振り返らない。
 圭吾はそれを良いことに、そのペンで菊子の指から腕に向けてなぞっていく。すると菊子は声を我慢するように顔を赤くさせた。
 その間にも圭吾は、菊子が解いた答えを見ている。
「ここの計算が違う。どうしたの?調子悪い?」
 ペンを置かれて、その手を握られた。
「や……。そんなことないんですけど……。」
「だったらもう一問解いてみようか。これが良いかな。」
 テキストを取るのに、体を寄せた。そしてそれを取るとき、手を離す。そして菊子の足下にテキストが落ちる。
 とにかく少し距離を取りたい。菊子はいすから立ち上がると、しゃがみ込んでテキストを取って立ち上がろうとした。しかしその肩を押さえ込まれる。
「……何……。」
 見上げると圭吾が見下ろしていた。肩を押されて、立ち上がれない。いすを壁にして、二人にわざと見せないようにしている。
「……や……。」
「黙って。」
 囁くような声で圭吾は菊子に言う。そして圭吾はそのまま菊子の方へ顔を近づける。
「やめてください。」
 拒否をするようにその体を押す。しかし簡単にその腕を放されて、手を握られる。
「静かにして。」
 生意気な目だ。こちらをにらむように見ている。それがとてもそそられる。こういう女の言うことをきかせたい。
 うつむいている菊子をのぞき込むように視線を合わせ、そして唇が触れる。音も何もしなかった。何もしていないように聞こえるだろう。
 圭吾は立ち上がると、またいすに座る。そして菊子もテキストを手にして、いすに座った。
「何言ってるのかわからない。」
「ゆっくり聞けばわかるから。落ち着いて。」
 武生と梅子は何も気がついていない。イヤフォンを取ると、ため息をついていた。
「菊子ちゃん。この問題、解いてみて。さっきの応用だから。」
 笑顔でそう聞いてくる。
「わかりました。」
 そういって問題を解くが、心の中は荒れていた。
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