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恋人と愛人
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夢を見ていた。昔の夢だ。
そのころの百合は仁という名前だった。どこかの国のオーケストラに入っていたが、帰国したばかりで少し天狗になっていた気がする。対して棗は店を開いたがあまり軌道に乗っていなくて、気晴らしのためにギターをはじめていた。百合と棗は対照的すぎて、言い合いをすることが多かったが、それよりも言い合いをしていたのは綾と蓮だった。
蓮はまだ技術的に未熟なところもあって、歌い手としてプライドの高い綾とは常に言い合いをしていた。
だが美咲と綾が言い合いをすることはない。それは棗も百合も同じ事だった。美咲は常に穏やかで、大人の女性だったからだ。頭ごなしに怒鳴ることもない。ミスがあれば「そう言うこともあるわ。次にミスしなければいいの。」とおおらかな気持ちになっていた。
そして美咲は綾の歌を絶賛していた。イメージ通りに歌ってくれるということらしい。そして程なくして、綾とつきあうようになったと美咲から言われた。女同士でも付き合うことがあるんだなと、蓮はそのとき感心しただけだった。嫉妬などはない。
あるクリスマスイブの日だった。美咲は急に蓮を呼び出した。
「結婚しない?」
急に言われたことに戸惑った。だがその実状は、愛しているとかそう言うことではないことであることに気づかされたのを覚えている。
「昔、薬をしていたの。仁は知っている。私のせいで家族も崩壊したのだから。」
そう言ったコーヒーカップを持つ左手には、自傷の跡が沢山あった。蓮はそのときやっとこの人を守らなければいけないと感じたのだ。
子供が欲しかった。綾のことを愛しているが、綾とは子供が出来ない。それに、薬をしていた自分がまともな子供が出来るのか、やってみたかったとも言っていた。
蓮はそれをおそらく情で受けたのだ。だから美咲を抱いても、「こんなものか」と感じていた。
だから本心で菊子を抱きたい。もっと感じたい。自分のものにしたいと思ったのは、初めてだったかもしれない。
その日、梅子は菊子と武生の家に居た。小さい頃は良く行き来する仲ではあったが、高校生になってすっかりそういうことは無くなっていた。
本当なら梅子が一人で武生の家に行くつもりだった。だがさすがにヤクザの家に女が一人で行くものじゃないと、武生は菊子と来るように言ったのだ。
部屋は普通の部屋だった。あまり広くもないし狭くもない。ベッドと本棚。勉強机。組み立て式のローテーブルを出して、武生は梅子に課題を教えていた。
「……わかる?梅子。」
武生は教え方がうまい。梅子でもわかるようにかみ砕いて教えているようだった。その辺は啓介とは違う。啓介も教え方はうまい方なのだが、どうしても情が入ってしまうのだ。
そして菊子もテキストを開いて、新学期にある試験の山を張っている。歌だ、仕事だと盛りだくさんの夏休みだったから、試験の点数が悪かったなど言われたくなかったのだ。
「うん。この公式だね。」
「そう。応用。菊子は大丈夫?」
「何とか。武生。この問題文だけどさ。」
夏休みにはいる前、英語に関しては菊子の方が出来たはずだ。だが今は菊子が武生に聞いている。随分勉強したようだ。
「武生さん。」
外から声が聞こえる。それは日向子の声だった。武生は立ち上がると、ドアを開ける。
「はい。」
「お茶のお代わりいかがですか。それから、子供たちのおやつにと思ってパウンドケーキを焼いたんですけど、召し上がりませんか。」
「ケーキですか?どうする?」
後ろを振り返って菊子と梅子に聞く。すると梅子は嬉しそうにうなづいた。
「食べたいわ。手作りなんでしょう?」
すると日向子は笑いながら言う。
「たいしたものじゃないんですよ。ホットケーキミックスを使った、手抜きのパウンドケーキ。」
その言葉に菊子は少し笑った。
「そういうアレンジも出来るんですね。」
家庭ではないと出来ないことだろう。おそらく棗でも大将でも思いつかない技だ。
「じゃあ、切り分けて持ってきますね。」
日向子はそういって行ってしまった。
あの昼間に体を重ねて以来、日向子は何も手を出してこなかった。あのときのことが嘘ではないかと思う。だが女はわからない。どんなに綺麗でも、その裏の顔はわからないのだから。
「武生。暑いよ。」
クーラーの冷気が逃げているらしい。梅子がぼそっと文句を言った。
「ごめん。ごめん。」
そういってドアを閉める。そしてまた同じ席に座ると、梅子はお茶を飲みながら武生に言った。
「あの人、お兄さんの奥さんだっけ。」
「そう。一番上の省吾兄さんの奥さん。」
「若い奥さんね。」
「そんなことないよ。省吾兄さんと同じ歳だから、もう三十代後半かな。」
その言葉に梅子は思わずお茶を噴きそうになった。
「何?きったないな。」
「だってさぁ。制服着たら高校生に間違えられるよ。あの義理のお母さんとは全然違うんだね。」
「あぁ。そうだね。」
口では言うが、その本性は全く違う。ただの雌だ。武生は心の中で悪態をつく。
「菊子もそう思わない?」
菊子はそんなことにあまり興味がないようだ。テキストを見ながら、首を傾げる。
「あ、ごめん。あまり見てなかった。」
「なによぉ。あたしだけ見てたみたいじゃん。」
頬を膨らませて梅子は、小さく抗議した。
「菊子は、数学出来るようになったね。」
そういって武生は菊子のノートを手にして、ページをめくる。
「うん。たまに蓮さんに見てもらう。」
「蓮さんが?」
「大学でも余裕でいけるくらいの頭があったらしいんだけど、高校を卒業してすぐに家出したって言ってたから。」
せめて卒業証書だけはいるだろうと、そこだけは我慢した。そして蓮はそのもらった卒業証書と制服とともに家を出たのだという。その辺の話はあまり聞いたことがない。
「菊子さ……。」
武生は何か言いたそうだった。だがドアが再びノックされる。立ち上がり武生はドアを開けると、トレーにお茶と甘い匂いのパウンドケーキを乗せた日向子が立っていた。
「ごめんなさいね。中に入っても良いですか。」
「どうぞ。」
日向子は部屋に入ると、驚いたように目を見開いた。そこには菊子の姿があったからだ。
そして菊子も入ってきた日向子を見て驚いている。
「あ……。初めましてですかね。日向子と言って……武生さんのお兄さんの嫁です。」
すると梅子は笑顔で答える。
「梅子です。それから……。」
「菊子と言います。初めまして。」
初めてではない。だがそれを口に出せないだろう。
「美味しそう。これ本当に手作りですか?」
梅子だけが無邪気に、その皿を受け取っていた。
そのころの百合は仁という名前だった。どこかの国のオーケストラに入っていたが、帰国したばかりで少し天狗になっていた気がする。対して棗は店を開いたがあまり軌道に乗っていなくて、気晴らしのためにギターをはじめていた。百合と棗は対照的すぎて、言い合いをすることが多かったが、それよりも言い合いをしていたのは綾と蓮だった。
蓮はまだ技術的に未熟なところもあって、歌い手としてプライドの高い綾とは常に言い合いをしていた。
だが美咲と綾が言い合いをすることはない。それは棗も百合も同じ事だった。美咲は常に穏やかで、大人の女性だったからだ。頭ごなしに怒鳴ることもない。ミスがあれば「そう言うこともあるわ。次にミスしなければいいの。」とおおらかな気持ちになっていた。
そして美咲は綾の歌を絶賛していた。イメージ通りに歌ってくれるということらしい。そして程なくして、綾とつきあうようになったと美咲から言われた。女同士でも付き合うことがあるんだなと、蓮はそのとき感心しただけだった。嫉妬などはない。
あるクリスマスイブの日だった。美咲は急に蓮を呼び出した。
「結婚しない?」
急に言われたことに戸惑った。だがその実状は、愛しているとかそう言うことではないことであることに気づかされたのを覚えている。
「昔、薬をしていたの。仁は知っている。私のせいで家族も崩壊したのだから。」
そう言ったコーヒーカップを持つ左手には、自傷の跡が沢山あった。蓮はそのときやっとこの人を守らなければいけないと感じたのだ。
子供が欲しかった。綾のことを愛しているが、綾とは子供が出来ない。それに、薬をしていた自分がまともな子供が出来るのか、やってみたかったとも言っていた。
蓮はそれをおそらく情で受けたのだ。だから美咲を抱いても、「こんなものか」と感じていた。
だから本心で菊子を抱きたい。もっと感じたい。自分のものにしたいと思ったのは、初めてだったかもしれない。
その日、梅子は菊子と武生の家に居た。小さい頃は良く行き来する仲ではあったが、高校生になってすっかりそういうことは無くなっていた。
本当なら梅子が一人で武生の家に行くつもりだった。だがさすがにヤクザの家に女が一人で行くものじゃないと、武生は菊子と来るように言ったのだ。
部屋は普通の部屋だった。あまり広くもないし狭くもない。ベッドと本棚。勉強机。組み立て式のローテーブルを出して、武生は梅子に課題を教えていた。
「……わかる?梅子。」
武生は教え方がうまい。梅子でもわかるようにかみ砕いて教えているようだった。その辺は啓介とは違う。啓介も教え方はうまい方なのだが、どうしても情が入ってしまうのだ。
そして菊子もテキストを開いて、新学期にある試験の山を張っている。歌だ、仕事だと盛りだくさんの夏休みだったから、試験の点数が悪かったなど言われたくなかったのだ。
「うん。この公式だね。」
「そう。応用。菊子は大丈夫?」
「何とか。武生。この問題文だけどさ。」
夏休みにはいる前、英語に関しては菊子の方が出来たはずだ。だが今は菊子が武生に聞いている。随分勉強したようだ。
「武生さん。」
外から声が聞こえる。それは日向子の声だった。武生は立ち上がると、ドアを開ける。
「はい。」
「お茶のお代わりいかがですか。それから、子供たちのおやつにと思ってパウンドケーキを焼いたんですけど、召し上がりませんか。」
「ケーキですか?どうする?」
後ろを振り返って菊子と梅子に聞く。すると梅子は嬉しそうにうなづいた。
「食べたいわ。手作りなんでしょう?」
すると日向子は笑いながら言う。
「たいしたものじゃないんですよ。ホットケーキミックスを使った、手抜きのパウンドケーキ。」
その言葉に菊子は少し笑った。
「そういうアレンジも出来るんですね。」
家庭ではないと出来ないことだろう。おそらく棗でも大将でも思いつかない技だ。
「じゃあ、切り分けて持ってきますね。」
日向子はそういって行ってしまった。
あの昼間に体を重ねて以来、日向子は何も手を出してこなかった。あのときのことが嘘ではないかと思う。だが女はわからない。どんなに綺麗でも、その裏の顔はわからないのだから。
「武生。暑いよ。」
クーラーの冷気が逃げているらしい。梅子がぼそっと文句を言った。
「ごめん。ごめん。」
そういってドアを閉める。そしてまた同じ席に座ると、梅子はお茶を飲みながら武生に言った。
「あの人、お兄さんの奥さんだっけ。」
「そう。一番上の省吾兄さんの奥さん。」
「若い奥さんね。」
「そんなことないよ。省吾兄さんと同じ歳だから、もう三十代後半かな。」
その言葉に梅子は思わずお茶を噴きそうになった。
「何?きったないな。」
「だってさぁ。制服着たら高校生に間違えられるよ。あの義理のお母さんとは全然違うんだね。」
「あぁ。そうだね。」
口では言うが、その本性は全く違う。ただの雌だ。武生は心の中で悪態をつく。
「菊子もそう思わない?」
菊子はそんなことにあまり興味がないようだ。テキストを見ながら、首を傾げる。
「あ、ごめん。あまり見てなかった。」
「なによぉ。あたしだけ見てたみたいじゃん。」
頬を膨らませて梅子は、小さく抗議した。
「菊子は、数学出来るようになったね。」
そういって武生は菊子のノートを手にして、ページをめくる。
「うん。たまに蓮さんに見てもらう。」
「蓮さんが?」
「大学でも余裕でいけるくらいの頭があったらしいんだけど、高校を卒業してすぐに家出したって言ってたから。」
せめて卒業証書だけはいるだろうと、そこだけは我慢した。そして蓮はそのもらった卒業証書と制服とともに家を出たのだという。その辺の話はあまり聞いたことがない。
「菊子さ……。」
武生は何か言いたそうだった。だがドアが再びノックされる。立ち上がり武生はドアを開けると、トレーにお茶と甘い匂いのパウンドケーキを乗せた日向子が立っていた。
「ごめんなさいね。中に入っても良いですか。」
「どうぞ。」
日向子は部屋に入ると、驚いたように目を見開いた。そこには菊子の姿があったからだ。
そして菊子も入ってきた日向子を見て驚いている。
「あ……。初めましてですかね。日向子と言って……武生さんのお兄さんの嫁です。」
すると梅子は笑顔で答える。
「梅子です。それから……。」
「菊子と言います。初めまして。」
初めてではない。だがそれを口に出せないだろう。
「美味しそう。これ本当に手作りですか?」
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