夏から始まる

神崎

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恋人と愛人

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 ライブが終わり、蓮はホールの片づけをしていた。今日のキッチンはバイトの男。ホールにはもう一人女がいる。女はシングルマザーで、親の所に子供を預けているらしい。親子二人が満足して暮らすには、どうしてもダブルワークでもしないといけないのだ。だがそんな彼女にも蓮は厳しい。
「ダスターをもっと良く絞れ。テーブルがビチャビチャだ。」
 女が拭いたあとをまた蓮が拭く。面倒だがそうしないといけない。
 そのとき店にカップルが入ってくる。男はスーツ姿だが、女はどう見ても水商売の女だった。
「いらっしゃい。ライブは終わりましたが、よろしいでしょうか。」
「まだ閉店時間ではないのでしょう?」
「はい。」
「だったら飲めるだけで良いわ。」
 カウンターで酒を作っていた百合は、男を見て顔色を変えた。そして酒を蓮に手渡すと、カウンターを出てくる。
「お久しぶりです。」
「仁さん。店長ぶりが板についてきたね。」
「恐れ入ります。」
 いつものおどけた感じはない。真剣に話をしないといけない相手なのだろう。だが若い男だ。まだ高校生にも見えないこともない。
「蓮。」
 百合は蓮を呼んでテーブル席にいる二人に近づける。
「何だ。」
「本社の方よ。東さん。」
 初めて見る顔だった。確かに蓮も社員ではあるが、店長はあくまで百合であり用事があるときは百合が本社に出向くので、蓮は本社に行くことはあまりない。
「初めまして。東裕太です。」
 そういって裕太は名刺を差し出した。
「戸崎です。」
「話には聞いてますよ。ここでレッスンなんかもしているとか。」
「はぁ……。」
 名刺を取り出すと本社の名前とは別に、レコード会社の名前も書いていた。
「……もしかして、これからベースの音が欲しいとかそういうときは、あなたが依頼してくるんですか。」
「おっしゃるとおりです。前任の斎藤さんは別口の仕事に就いたので、私がそのあとをすることになりました。」
「はぁ……。」
 こんな若い人がそんなことが出来るのだろうか。斎藤というのは元々プロのミュージシャンだったから、彼の要求に蓮は素直に聞いていたのだが、この男ではそれが出来そうにない。
「……あ、私も一応ミュージシャンですよ。」
「現役の?」
「えぇ。今はプロデュースとか、作曲とか、そんなものですけどね。」
 すると向かいに座っている女が口を押さえて笑う。
「あら。謙遜ね。」
「そんなことはないよ。」
「アイドルのプロデュースで成功しているじゃない。「初恋」は今年のはじめに大ヒットしたわ。」
 その曲はあまりアイドルに興味がない蓮でも知っている曲だった。有線とか、ラジオでしつこいくらい流れていたのを覚えている。
「アイドルのプロデュースは、俺だけの力じゃないよ。本人たちの自己努力もある。彼女らは白鳥のようだ。」
「白鳥?」
 百合は不思議そうに聞くと、東は笑いながら言った。
「そうですね。笑顔でダンスをしながら歌っている。だがその裏八のにじむようなダンスのレッスン、ボイストレーニング、何より動いても歌やダンスがぶれないようにする体づくりを必死にしている。」
 東はタバコを取り出したのを見て、蓮は灰皿を持ってきてそのテーブルに置いた。
「それに今はSNSの時代だ。いくらアイドルが可愛くて、歌もダンスも完璧でもそれを宣伝し切れなければ宝の持ち腐れだしね。彼女らはそれを寝る間も惜しんで発信し続けている。全く、頭が下がる思いだ。」
 なるほど。見た目は若くても、そうやって持ち上げることは忘れないのだ。元プロのミュージシャンと言うだけあって、先見の目はあるらしい。
「っと……プライベートまで仕事の話はしたくないね。蝶子。店を休んでまで来たんだ。何か飲むのかな。」
 メニューを差し出す。なるほど。蝶子という女らしい。百合や中本に話は聞いていたが、この女が元売れっ子のAV女優であり、梅子の母親だった。よく見れば似ている。
「そうね。カシスオレンジをもらえるかしら。」
「はい。東さんは?」
「ターキーをロックでもらえるかな。」
「はい。少々お待ちください。」
 百合はそういってカウンターに戻っていく。そして蓮も掃除をまた再開しようとした。そのときだった。
「戸崎さん。」
「はい。」
「斎藤さんから話は来ていると思うが、上京する気はないのかな。」
 その話に、蓮は表情をわずかに変えた。
「無いですね。この町は住み心地がいい。適度にモノはあるし、物価も安い。生活をするだけなら十分です。」
「惜しい話ですね。あなたくらいのベーシストであれば……いいや、ギターでも、プロとして十分通用すると思いますがね。」
 その言葉に蓮は手を横に振る。
「俺くらいなのはごろごろしているのがプロでしょう。それでも食えてない奴らばかりです。腕があるから売れるとは限らない。」
 その言葉に蝶子が口を挟んだ。
「随分臆病なのね。」
「え?」
「若いうちはやってみないとわからないってくらい無鉄砲でもいいのに。あたしもそうだったわ。」
「……。」
「うちの子の方がよっぽど無鉄砲ね。」
「梅子ちゃんはグラビアにでているね。」
「えぇ。中本さんの紹介でね。でもあの子は、撮られる側ではなくて撮りたいそうよ。だから高校卒業したら、映像関係の専門学校へ行きたいんですって。」
「それもまた道だよ。」
 タバコに火をつけて東は蓮を見上げる。
「離れたくない理由でもあるのかな。」
 その言葉に蓮の表情が少し変わる。
「……え……。」
「あぁ。女って事ね。」
 どんな女なのだろう。見た目はパンクファッションに身を包んでいる男だ。隣にいるのは下品な売春婦のような女が似合うと思う。
「西さんという人が来ているはずだ。○○レコードのね。どうやらバンド編成で売り出したいらしい。けど、うちで君を売り出すのはバンド編成ではなく、スタジオミュージシャンなんかの仕事だ。」
「食えないでしょう?」
「いいや。一応社員だし、基本給はでる。あとは実績次第だと思う。どっちにしてもここで働くよりは、実入りは良いはずだ。」
 アイドルのコンサートやミュージシャンの後ろでベースなりギターなりを弾けと言うことだろうか。だがその道もあったのかと蓮はうなづいた。
 そのとき百合が酒を持ってやってきた。
「お待たせしました。これは付け合わせです。」
 そういって百合はナッツをテーブルに置いた。するとそれ二兆個が手を伸ばす。
「美味しいわ。ひと味違うナッツね。売ってるの?」
「あ、いいえ。ここでちょっと手間をかけてるだけです。」
 東もそのナッツに手を伸ばして口に運ぶ。確かにおいしい。ただのナッツではなく、塩の他にもバターやブラックペッパーやハーブの香りもする。
「これはいいね。他の店舗にも声をかけよう。仁……失礼。ここでは百合さんだったかな。レシピを教えてくれますか。」
「はい。」
 百合はカウンターに戻ると、そのメモを用意した。
「でも……このナッツの味、どこかで食べたことがあるような……。」
 蝶子はそれを口にして首を傾げる。そうだ。これは昔、余ったピーナッツを家に持って帰ったとき、たまたま来ていた菊子が作ったものだ。
「同じ味だと飽きるから。」
 そう言っていたのを覚えている。なるほど。これはおそらく菊子が教えたのだろう。
「菊子ちゃんがここに来ることがあるの?」
 蓮にそれを聞くと、蓮は少し笑顔になって言う。
「えぇ。歌ってくれます。」
「歌?あぁ。両親は声楽か何かをしてたわね。上手だって聞いた。でも料理も上手ね。」
「将来は料理人になりたいとか。」
 その言葉に東はタバコを消すと、心の中でうなづいた。そうか。その女が、蓮をここに引き留める理由なのだろう。
 安定した収入にこだわるのは、おそらくその女と一緒になりたいとでも思っているのかもしれない。
 いっそ女ごと上京してくれないだろうか。だが女は料理人になりたいと言っていた。それを遠慮してここにいるのだろうか。
 とんだ疫病神だ。そう思いながら東は酒を口に運んだ。
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