夏から始まる

神崎

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腐った世界

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 電話を切り、棗はため息を付く。そして入り口に立って中には入ってこない菊子にその携帯電話を手渡した。
「武生の番号教えろよ。連絡があるとき、直接俺に連絡が来た方がいいんだとよ。」
 棗はそういって自分の携帯電話を持ってきた。菊子もその番号を呼び出して棗に伝える。何の用事があったのだろう。だがそれを聞くことは出来ない。あれだけ棗を拒否したのだ。二人の間に何があっても、菊子には聞く権利がないと思うから。
「じゃあ、あとは直接連絡してください。おやすみなさい。」
 そういってドアを閉めようとした。だが棗は少し笑いながら、菊子に言う。
「つれねぇな。武生とは友達なんだろう?男と女の友情って前言ってたじゃねぇか。」
 その声に菊子の手が止まる。しかし聞くのだったら棗ではなく、武生に直接聞くことも出来るのだから、無理に棗に聞くことはない。
「直接聞きますから。」
「お前、根に持つな。三人で友達だって言い張ってたのに、男のことで簡単に関心がなくなるんだな。」
「……。」
 確かにそうかもしれない。冷たいと思われるような行動だった。菊子はドアを閉めようとした手を止めて、棗を見上げる。
「武生は何を言ってきたんですか。」
「……知加子がいたあのおんぼろアパートに、武生が入りたいんだとさ。だから保証人になってくれないかって言ってきた。」
「保証人?」
「未成年だから、親の同意が必要だろうって言ったら黙ってたけどな。どっちにしてもあの家には居たくないんだろう。」
 武生が家に居たくないと言っていたのは、武生を組に入れたい親や、武生の体を狙ってくる母親の存在があったからだと思う。
 だが今はその母親はいない。前ほど居たくないとは言わなくなったのだろうに、何がそうさせたのだろう。
「……また何か抱えてるんでしょうか。」
「しらね。そこまでは言わなかったな。」
 携帯電話を握る手が強くなる。きっとヤクザの世界は腐った世界だ。必要なのは金や、権力。それを武器に周りのモノを黙らせる。
 今日は圭吾に女将さんが機転を効かせて追い出してくれたが、本来なら黙って抱かれないといけないのだろう。抱かれれば終わりだ。骨の髄までしゃぶられる。
「まぁ……あぁいう人たちとは必要以上に仲良くなる必要はありませんが、近すぎず遠すぎない距離感が必要になるでしょうから。」
「そういうことはわかってんだな。」
「昔から見ていましたから。」
 思えば、小さい頃からヤクザを目にしていた。武生の父親には随分可愛がられたような気がする。小遣いの一つ、お菓子の一つ、菊子の手に渡っていたから。
 遠慮をして断ってはいけないと、女将さんから言われていたから素直に受け取っていたが、今日の圭吾の態度からするとそれも計算のうちだったのかもしれない。
 油断をさせておいて売るのだ。
「お前が思うよりもお前はずっと女になってんだから注意しろよ。俺の店に来てもそういうことはあるんだから。」
「行きません。」
 頑なに拒否をする。それがまた可愛らしいと思う。思わず抱きしめたくなった。
「なぁ。菊子。部屋に入れよ。」
 棗が言うと、菊子は怪訝そうな顔をして首を横に振る。
「イヤです。話は終わりなようですから、部屋に帰ります。おやすみなさい。」
「菊子。」
 そのとき女将さんと大将の部屋から、女将さんが眠そうな顔で出てきた。
「騒がしいですよ。」
「あぁ。すいません。」
「……棗さん。あまり菊子さんを誘わないでくださいね。」
「へ?」
 そういって棗の前に女将は立つ。
「何度も言ってますけど、菊子さんには蓮さんの嫁になるのが一番良いと思ってます。音楽家というのも一つの職人ですし、お互いが切磋琢磨していけばお互いにプラスになるでしょう。」
 その言葉に棗は頭をかいた。
「マジで言っているんですか。」
「えぇ。」
「あいつはきっと菊子を手に入れたら、ないがしろにしますよ。」
「あなたではそうさせないと?」
「えぇ。」
「菊子さんを今でも思いやれないのに、結婚したら出来ると思ったら大間違いですよ。」
 厳しい言葉だった。それだけ棗を気に入っていないのだろう。
「随分、菊子に肩入れするんですね。」
「孫の一人ですからね。両親があんな風ですから、私たちが味方にならないでどうするんですか。」
 その言葉に棗は少し笑う。
「孫ね……。」
「何を……。」
「菊子が本当にあの両親の子供だったら良かったのにな。」
 女将の顔が青ざめる。そして菊子を見上げた。
「棗さん……あなた何を言っているの?」
「……言葉の通りですよ。文句があるんなら、さっさとDNA鑑定でも何でもしろよ。」
 その言葉に菊子も不安そうに棗を見た。だが女将はそれ以上何も言わない。
「もう遅い時間ですから、早くおやすみなさい。菊子さんも部屋に戻りなさいな。」
「……はい。」
 釈然としない。だが菊子は棗の部屋を離れて、自分の部屋の方へ戻っていく。そして女将さんも戻っていった。
 部屋に入りドアを閉めようとしたとき、そのドアに手が延びた。それに菊子は驚いて、思わずドアノブを離す。そして中に棗が入ってきた。
「何ですか?」
「夕べ、蓮の所にいたんだろ?今日は俺の所に来いよ。」
「イヤです。」
 あくまで拒否をする。その態度も可愛いと思った。棗はドアを閉めて、菊子に近づく。菊子はそれを避けようと、本棚の方へ体を避けた。だがついに本棚の方へ追いつめられて、菊子は身動きがとれない。
「だったら、キスの一つでもさせろよ。」
「やです。」
「今更何言ってんだよ。」
 そういって棗はその体に手を伸ばす。そしてぐっと菊子を抱き寄せた。相変わらず抱き心地の良い体だ。柔らかくて、細い。
「イヤ……。」
 菊子はその腕から避けようと、体をよじらせる。しかし棗がそれを許さない。
「菊子。」
 耳元でささやかれる自分の名前。そのたびに吐息が耳にかかる。するとイヤでも菊子の頬が赤くなった。
「イヤ……。」
「耳が弱かったよな。」
 そういって棗はその耳に唇を寄せる。そしてその耳たぶを軽くかんだ。
「ん……。」
 そのまま頬に唇を寄せて、ちゅっと音をさせる。その頬を包むように両手で掴み上げた。菊子の目が少し涙ぐんでいる。それがさらに棗を奮い立たせた。
「菊子。」
 そういって棗はその唇に唇を寄せた。最初は触れるだけ。そして口を開くと、その口内の中に舌を入れる。
 嫌がっていたのに菊子の舌を舐め回すと、菊子もそれに答え始めた。だがその手が棗の体に回ることはない。
 何度もそれを繰り返して唇を離したとき、菊子の目からまた涙がこぼれた。
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