夏から始まる

神崎

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腐った世界

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 自分が誰の娘なのかわからない。それはずっと疑問に思っていたことだった。母親は確かにAV女優として名を馳せていたときに、梅子を身ごもったのだ。だからどの人が父親なのかわからないと、周りの人はいっていたのを聞いたことがある。
 AV女優は確かにセックスを映像にして売り出すものだ。時にはコンドームなしでセックスをして、そのまま中に出されるのを見物にしているものもある。だからAV女優にとってピルは欠かせない。
 母親はあぁ見えてきっちりしている人だ。ピルを飲み忘れて、誰の子供かわからない人をそのまま生むとも思えなかった。だからきっと望んで作ったのだと梅子は自分に言い聞かせていた。
 だが父親の名前は母親はガンとして口を割らない。それが不安になり、噂を聞きつけた棗みたいな人が梅子に暴言を吐くこともあるのだ。
 町中のショーウィンドウで、自分の姿を見る。確かに母親にはよく似ていると思う。豊かな胸も母親譲りだ。だが自分もそれを武器にして売りたくはない。
「梅子ちゃん?」
 声をかけられて振り向いた。そこには武生の兄である圭吾が自分の舎弟を連れて歩いていた。圭吾とは違い、いかにもヤクザがあるいているように見える省吾に、行き交う人たちは道を譲っている。
「どうも。お久しぶりです。」
 省吾は心の中で笑う。圭吾はこの女を売りたいと思っていたみたいだが、それを諦めたらしい。余計なことをされたとグチっていた。
 だがこんな女子高生、きっと声をかければすぐに売れるだろう。大きく襟刳りの開いたシャツがそれを物語っている。
「待ち合わせ?」
「いいえ。暇だったからぶらぶらしてただけです。」
「そっか。あぁ、あの週刊誌みたよ。予告に載ってた。」
「やだ。見たんですか?恥ずかしい。」
 知られている人に見られるのは恥ずかしいものがある。それに省吾が見ているということは、武生も見ている可能性があるのだ。
「昔のお母さんに似ている。よく言われない?」
 その言葉に梅子は少し顔を曇らせた。それが一番に言われたくないことだったから。
「どんな感じであとはあるの?」
 すると梅子は嬉しそうに携帯電話を取り出す。そしてその写真を見せた。
「へぇ。結構ぎりぎりのところを撮ってるね。」
「まだ布が多い方ですよ。」
 のぞき込むように省吾はその携帯電話の画面を見ている。少し距離が近くて、煙草と甘い匂いの香水の匂いがした。
「あとは違う週刊誌?」
「はい。それは再来週に出るそうですね。」
「楽しみにしてる。」
 そういって省吾は梅子と離れた。そして梅子はその近くにあるコーヒーショップに入っていった。その背中を見て、省吾は少し笑った。
「撮れたか?」
「ばっちりですよ。ほら。」
 舎弟が携帯電話を見せる。そこには省吾の姿と、梅子の姿がある。距離は近くて、まるで恋人のようだと勘違いさせた。
「あの女はヤリ○ンらしいからな。これくらいの距離は屁でもねぇんだろう。それがどれだけ影響するか知らないでな。」
 少し笑い、省吾は足を進めた。
「日向子はうまくやってるかな。」
「なかなか武生さんが家に寄りつかないから、隙がないって言ってましたよ。」
「甘い男だな。ヤクザの家に生まれたんだから、その道しかないだろうに。」
 省吾はそういって歩いていく。

 そのころ、武生は家に帰っていた。補習が終わり、忘れ物をしたからだった。
「ただいま。」
 すると日向子が奥の廊下から出てくる。
「お帰りなさい。アレ?今日早いですね。」
「ちょっと忘れ物があったから、またすぐ出ます。」
「お昼食べていきますか?子供たちはプールに行ってしまったし、一人でお昼も寂しいから。」
 確かにその通りかもしれない。どこかで買って食べようかと思っていたが、それを払拭させた。
「何か用意できますか?」
「焼きそばを作ろうと思って。」
「日向子さんの美味しいから楽しみです。」
 義母だったらすぐに出かけただろう。あの視線が苦手だったから。舐めるような視線はまるで蛇のようだと思っていた。
 リビングへ行くと、焼きそばのソースの香りがした。日向子は汗をかきながらフライパンに出来た焼きそばを、器に盛りつけている。首も取に汗をかき、それがとても色っぽいと思った。
「肉は入ってませんけどね。」
 そういって日向子は武生の前に焼きそばの入った皿を差し出した。義母が作るものと全く違う。これはおそらく菊子の家で、しかも店で食べるものではなく女将さんがみんなのためにと言って作っているものに近い。ようは家庭の味のようだ。
「美味しいです。」
「良かった。」
 下のものもいるのかもしれないが、今日は静かなものだ。蝉の声が聞こえる。
「お母さんは子供を産みに実家へ帰ったと言ってましたけど、実家はどちらの方でしたかね。」
 その武生の言葉に、日向子は少し笑った。
「どうしました?」
「いいえ。そんなことを言うなんて初めてだったから。」
「え?」
「ご実家に帰ったなんて嘘に決まってるじゃないですか。売られたんですよ。」
「……やっぱりそうだったんですか。」
「えぇ。それは節操なく、下のものも幹部もくわえ込んでいたみたいですからね。お父様の逆鱗に触れたようで。」
 そんなところだろうと武生も思っていた。だが確信はなかったから、聞いてみただけのことだった。
「デビュー作で人妻ものらしいですよ。」
「あぁ……そっちの方に。」
 想像はしていた。あの見事な胸の持ち主だ。それはそれで需要があるのだろう。
「武生君も?」
「そうですね。無理矢理でしたけど。」
 すると日向子は意味ありげに笑う。
「どうしました?」
「いいえ。童貞のような顔をしていて、あのお母様の満足させていたのでしょうから、よっぽどだったのかと。」
「さぁ……人と比べたことなんかありませんよ。」
「でも恋人がいた時期もあるのでしょう?」
 恋人と言われて武生の胸が痛んだ。まだ知加子を忘れられない。
「昔……ですよ。」
「昔ね……。」
 日向子は少し笑みを消して武生に言う。
「あたしも昔好きな人がいたんですよ。」
「日向子さんに?」
「えぇ。でもあたしの家ってやっぱりヤクザだったし、でも……忘れたくなかったから、一度だけ体を重ねたんですよ。彼の家で。」
「……ばれたら、簀巻きにされますよ。」
「だから彼が外国へ高飛びする前にね。」
「……。」
「でもその時点であたしは処女じゃなかった。だからとても怒られたんです。省吾さんからね。」
「……。」
「結婚していれば、愛情が生まれると思ってたんですけどね。」
 ヤクザの家に生まれたのだ。だから並の神経はしていないと思っていた。だが日向子もまた普通の女だったのだ。
「今は子供のために尽くしていればいいでしょう。」
「そうね。せっかく授かったんですから。」
 焼きそばを食べ終えて、武生は皿をシンクへ持って行こうとした。そのとき、日向子も食べ終えてそれを止める。
「あ、武生さんそのままでいいんですよ。」
「いいえ。自分が食べたし。」
 日向子が側による。そのとき武生は妙な音に気がついた。小さな音がする。それはどこからだろう。
 ふと日向子を見下ろした。食事のあとだからだろうか。イヤ違う。何かモーター音がする。それが原因だろうか。
「……日向子さん。」
 そのとき日向子の頬が赤くなる。そしてうつむいた。
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