夏から始まる

神崎

文字の大きさ
上 下
221 / 265
温泉街

221

しおりを挟む
 百合と蓮が余った酒を手に持って、宿を訪れた。すると男部屋からにぎやかな声がする。
「……部屋で飲んでるみたいね。」
「酒は足りてるのか。」
 蓮はそういってその部屋のドアを開けた。するとそこはバンドの打ち上げらしく、他の部屋に迷惑ではないかという位盛り上がっている。
「あー。来た来た。パーカッションも一緒。」
 蓮は驚いて百合をみる。パーカッションというのは、速攻で叩いたコンテナのことだろうか。百合は少し笑うと、おどけたようにスカートを託し上げた。
「あら。あたし一曲しかしてないわよ。」
「でもマラカス渡したらすぐに振ってくれたじゃないですか。ドラムだけじゃなくてパーカッション全部いけるんですねぇ。」
 ドラムの男が笑いながら百合にビールを手渡した。
「えぇ。一応ライブハウスですからね。一通りの楽器は出来るようにしているのよ。蓮もそう。蓮も言われればドラムは叩けるもの。」
「あぁ。でも俺は鍵盤は駄目だ。どうしても指がもつれてな。」
 その答えに、友紀が驚いたようにいう。
「器用に何でもこなしてると思ったんだけど、駄目なものもあったのね。」
 菊子は棗の隣にいた。そしてその棗の隣には、昌樹が居る。昌樹の店は、食べ物はつまみ程度しか出さないがそれでも昌樹にこだわりがあるらしく、やはり食事の話で盛り上がっているようだった。
「お通しのことですよね。お酒にも寄ると思いますけど、バーだったらナッツとかが多いんですか?」
「クラッカーにチーズ乗せただけだとつまらないから、オリーブとブラックペッパーをかけたり。」
「ワインに合いそうですね。カクテルにも合うんですか?」
「カクテルは甘いものが多いから、ペッパーのピリッとした感じがいいんだろうな。」
 棗はそういいながらビールを飲んでいる。菊子の手にもコップは握られているが、おそらくビールではなくお茶だろう。
「菊子。」
 蓮は声をかけると、菊子の表情が明るくなった。
「蓮。終わったの?」
「あぁ、悪い。棗、昌樹さん。ちょっと菊子を借りる。」
 そういって蓮は菊子を立ち上がらせた。
「何?どうしたの?」
 蓮は何もいわないまま菊子の手を引いて、部屋を出ていった。その様子は怒っているようにも見える。その様子に昌樹は肩をすくませた。
「どうしたんだ。あいつ。」
「……あれだな。」
 そういって棗はビールを口に付ける。
「何?」
「男の嫉妬。醜いっての。」
 意地悪そうに笑うが、昌樹は首を傾げた。そんなに変なことは話していないと思うが。

 蓮は菊子を女部屋に連れてきた。この部屋は元々三人しか泊まる予定はないので、男部屋よりも狭い。だが蓮は部屋の中に入らず、部屋に通じるふすまの前で菊子を抱き寄せた。
「菊子……。」
 昼間は隣で音楽を奏でていた。そのときは同じ目線でいれると思っていた。だが今は違う。棗と一緒にいた。棗の方が音楽も通じていて、何より料理について語り合える。蓮ではそうならない。それが悔しいと思う。
「蓮……苦しい。」
 思わず力がこもってしまったらしい。苦しそうな菊子の声に、蓮は思わず菊子を離す。
「悪い……。力が入った。」
 すると菊子は少し笑う。その頬は少し赤い。
「でも嬉しい。今日ずっと一緒にいれたのに、こうすることも出来なかったから。」
「汗くさくないか?」
「そうね。気になるんだったら、お風呂に入ってきたら?大浴場は十二時までしているって。」
「……そうだな……それも良いが、知っているか?家族風呂もあるって言ってた。」
「家族風呂?」
 その言葉に菊子の顔がさらに赤くなった。一緒に入りたいと思っているのかもしれない。
「……あの……。蓮……。」
「恥ずかしいか?」
「みんな居るし……。」
「それもそうか。でもな……俺は大浴場には入れないから。」
「どうして?」
 すると蓮はシャツの袖をまくった。少し灼けた腕の下は白く、肩のところに入れ墨がある。
「……大浴場は入れないからな。やくざと勘違いされる。」
「そっか……。」
「だから菊子。出来ればお前と居たい。今日はずっといれなかったからな。」
 蓮の額が菊子の額と重なる。だがそのとき蓮はやっと気が付いた。菊子の額が熱いことに。
「お前……熱があるのか?」
 驚いて額を離し、その額に手を当てる。
「熱はないわ。違うの。日焼けでちょっと熱を持ってしまって……。」
「日焼け?」
「こんなに炎天下の下に長時間いることがなかったから、火傷みたいになったみたい。」
 その言葉に少しほっとしたようだった。
「そんな状態で温泉に入ったのか?熱が本当に出るぞ。」
「もう平気。涼子さんからローションももらったしちょっと火照った感じはあるけど、水分を取ったら気分も良くなったから。」
「だったら、今日はもう休んだ方がいい。」
「……蓮……。」
 このまま女部屋にいろということだろうか。確かに横になればすぐに寝てしまうかもしれない。でもそれでいいのだろうか。
 数時間前、菊子は棗とキスをした。望んだものではない。だからすべてを消して欲しいのに、蓮はそれでもここに閉じこめておこうと思っているのだろうか。
「あいつ等とつきあう必要はない。それに……。」
 蓮はまた菊子の体をぎゅっと抱きしめた。
「俺が一緒にいたい。棗に取られたくなかったからな。」
 すると菊子もその体を抱きしめた。
「蓮……。どこかに連れて行ってくれる?」
 その言葉に蓮は菊子の唇にキスをする。
「……蓮……。」
 唇を離して、蓮は菊子を抱き寄せた。そのとき、女部屋のドアが開こうとして、蓮はあわてて菊子を離す。ドアが開いてやってきたのは百合だった。
「あら。こんなところにいたの?」
「百合。」
「あんた、温泉入れないでしょ?余計なものもあるしさ。」
 余計なものというのは入れ墨のことだろう。
「あぁ。」
「だったらあたしが泊まってるホテルの部屋のお風呂使ったらいいわ。ビジネスホテルだけど、一応温泉らしいし。気分だけでも出るでしょ?」
「……いいのか?」
「いいのよ。あたし、こっちの広いお風呂に入りたいと思ってたから、着替えなんかも持ってきたのよ。」
 どおりで荷物が多いと思った。
「だから着替えだけさせてくれる?こっちで。さすがにあっちの部屋でストリップしたくないし。化粧を落とさないと、女風呂にはいらされるわ。」
 そういって百合は荷物を置いて、ワンピースを脱ぎ始めた。女性にしか見えなかった百合の体が男だと実感して、菊子は視線をそらせた。
「百合。頼みがあるんだが。」
 シャツとした議だけの百合に、蓮は近づいて話をする。図々しいとは思うが、これしかなかった。
しおりを挟む

処理中です...