夏から始まる

神崎

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温泉街

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 顔色が元に戻って菊子が帰ってくると、部屋の前で昌樹が友紀から何か言われているようだった。それは穏やかに談笑をしているという感じではないようだ。友紀の顔が険しい。
「どうしたんですか。」
「……あぁ。菊子ちゃん。大丈夫?」
「え?」
「あんなに思いっきり日焼けしたあとに、温泉入ったら気分が悪くなるでしょうねって涼子さんと話をしていたのよ。」
「日焼け?」
 そういえば湯船にはいるとき、腕や顔がひりひりしていた。それが日焼けだったらしい。
「……そういえば……。」
「全身じゃなくても、日焼けって熱が出るって涼子が言っていたのよ。だから大浴場にしておけば良かったのに。そしたら、何かあってもあたしたちが見るのに。誰もいない余所の温泉施設に入って、倒れられでもしたらどうするの。」
「あ……ごめんなさい。私が行きたいっていったんです。昌樹さんを責めないでください。」
「……菊子ちゃん……。」
「ごめんなさい。正直……あまりこういうことの経験がなくて、他の女性にも裸を見られたことなくて……。」
「だから余所か。まぁ……知らない人の方が良いかもしれないよね。年頃だもん。」
 その言葉に涼子は納得したようにうなづいた。
「それに、もう気分がいいので。」
「大丈夫?無理してない?」
「えぇ。もう平気です。」
 棗がにやりと笑う。上機嫌なのは、さっきまで菊子とキスをしていたからだろう。

 祭りの終わりは二十時。それから蓮たちは片づけをする。この屋台には明日は別の店が入るから、空にしておかないといけないのだ。だが屋台自体をばらすわけではないので、看板や酒を片づけるだけだったが。
「売り上げ良いか?」
 蓮がきくと、百合は笑顔で言った。
「ざっとしか計算していないけど、結構良いよ。お酒とセットで出してたつまみが良かったのかしら。」
 もう手を加えたナッツやクラッカーはない。そうした方がいいんじゃないかと言ったのは菊子。その狙いは当たったわけだが。
「それにあの騒ぎで、祭り自体がなくなるかと思ったのに。」
「だとしたらプロを明日呼んでおいて、ただ風呂に入るだけで帰ってしまうな。」
 即興で作ったライブは上手くいったし、売り上げも良かったし、言うことないと思っていた。
 だが蓮の心の中には何かもやっとしたものがある。それはおそらくあの西が連れてきた「black cherry」のメンバーに会ったからかもしれない。菊子に文句を言っていた早とちりした男。ベースの累と言っていた。
 背が高く髪が長い男だった。蓮とは違う軟派そうな雰囲気の男だが、水樹ほど男前というわけではないだろう。
 気になるのは外見ではなく、あの敵意だった。明らかに蓮に嫌悪感を示している。だから菊子にも噛みついたのだろう。菊子を侮辱することで蓮も侮辱できるとでも思ったのかもしれない。
「……ん?」
 最後の酒を積み終わり、蓮は携帯電話をチェックする。そこには菊子からの着信が入っていた。屋台が終わり次第行くと言っていたのに、どうして連絡をしてきたのだろう。まさかまた棗が手を出してきたのだろうか。
 蓮はその番号に連絡をする。しかし繋がらなかった。
「くそ。」
 そのとき百合が戻ってきた。そして百合の手にも携帯電話が握られている。
「ねぇ。蓮。あたしもそのうち上げに参加しないかって、さっき昌樹から連絡があったわ。」
「いいんじゃないのか。お前、ホテル取ってるんだろう?」
「そりゃね。この暗さでとんぼ返りしたくないし、温泉入りたいし。」
「だったらいいじゃないのか。」
 蓮は煙草に手を伸ばして、火をつける。ぱっとそこだけが明るくなった。
「ねぇ。蓮。本当に菊子ちゃんと一緒にいなくていいの?」
「……。」
「いつもさ、あたしとか棗が茶々をいれてあんたが重い腰を上げて菊子ちゃんに迫ってるみたいだけど、菊子ちゃんはそれでいいの?」
 すると蓮は煙草をぐしゃっと潰して、百合をにらみつけた。
「あいつにはあいつの事情があるだろう。それを俺が……。」
「菊子ちゃんだって求めてるでしょ?でも初恋なんだから、どう接して良いかわからない。してほしいことがあるのに、どう表現して良いかわからないって顔をいつもしてるわ。」
「……。」
「そこをくみ取るのが大人でしょ?」
「知った口利きやがって。菊子の気持ちがわかるのかよ。」
 すると百合はため息を付いて、珍しく真面目な顔で言った。
「そうやって、美咲もおざなりにしてたじゃない。」
「……。」
「だから美咲も寂しかったのよ。美咲だけが悪かったのでもバカだったわけじゃない。あんただってバカだったのよ。もっとかまってあげなさいよ。同じ間違いをする気なの?」
 百合はそういって蓮に近づく。そしてポケットから煙草を取り出して、それを一本くわえた。
「……お前、ずっとそう思っていたのか。」
「あたしをなんだって思ってたの?あたしは美咲の唯一の肉親よ。」
 本来なら一番に蓮を責めるべき立場だった。だが百合は蓮を全く責めなかった。だがそれは美咲だけではなく、蓮にも非があると思っているからだった。
「そうだったな……。」
 蓮は少しため息を付くと、再び煙草に火をつけた。
「……あたしには菊子ちゃんが美咲と同じ道を歩んでいるように見えるわ。それが薬じゃなくて、男だという違いだけで。どうするの?もし菊子ちゃんがあんたの子供でもない男の子供を妊娠したら。」
「……だからといって菊子を檻の中にいれていられない。あいつには……。」
「やりたいことがあるのはわかるわ。でもそれに上手くつけ込んでいるのが棗でしょ?」
「……。」
「守ってあげてよ。一人で何でもやろうとしてる菊子ちゃんが可愛そうだわ。所詮女の子よ。男の力にかなうわけ無いもの。」
 そして百合の心の中に反抗心が生まれる。
 絶対美咲の二の舞にしない。あいつ等の言うとおりになんかさせないのだから。百合はそう思いながら煙草をもみ消した。
「まずい煙草ね。」
「うるさいな。文句があるなら吸うな。」
 そういって蓮は軽トラに乗り込む。軽トラには幌がついているし、ほぼ空瓶だらけの瓶を盗むとは思えなかったが、念のため中身が入っているものだけでも百合が取っている部屋に運び込むのだ。
 百合は助手席に座ると、蓮はエンジンをかける。
「なぁ……。」
「何よ。」
「お前が泊まってるホテルは空き部屋があるのか?」
 その言葉に百合は少し笑う。
「知らないわ。あたし、ホテルマンじゃないし。でも……聞いてみたら?」
 祭りは明日もある。明日は綾たちが演奏するのだ。おそらく今日の騒ぎを見ていただろう。だからこそ、彼らは気合いが入っているはずだ。さすがプロだと言わせたいのだから。
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