夏から始まる

神崎

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温泉街

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 祭りの会場を抜けて、車はどんどん山道を行く、少し菊子は不安になりながら、車からの風を感じていた、このままどこかに連れて行かれるのだろうか。打ち上げと言っていた夕食の席に、二人が居なければ誰もが疑うに違いないだろうに、そんなことまで考えていないのだろうか。不安な気持ちを抑えていたが、それとは裏腹に車の窓から吹き込んでくる風が気持ちよくて気分は少しずつ晴れていく。
 山道を進んでいき、そしてさらに分かれ道の細い道を走っていく。そして車が急に停まった。
「着いたみたいだな。」
 棗は菊子を外にでるように促した。外に出てみると、何か水の音がした。
「何ですか?」
 すると棗は少し笑って前を見る。
「この先に滝があるらしいんだよ。」
「滝?」
「あんまり水量がないかもしれないけど、お前見たことあるか?」
「生で見たことはないです。」
「だろ?そっち側からいけるみたいだな。」
 小さな小川がありそこへ棗は足を踏み入れると、菊子の手を取って彼女もその川岸に下ろした。
「あまり足下が安定しないから、気をつけろよ。」
 当然かもしれないが舗装はされていない。だが町よりも涼しい気がした。奥の方へ進んでいくが、棗は手を離さない。離す気もないのだろう。
「……見えたな。」
 遙か上の崖から、大量の水が音を立てて落ちてくる。水しぶきがわずかに涼しさを与えているようだ。それは火照った菊子や棗の顔にもかかってくる。
「すごい……。」
「でもやっぱ水量が大したこと無いな。迫力不足。」
「そうですか?とても立派だと思いますけど。」
 菊子は棗の手を離して、その川岸まで歩く。そしてその水に触れた。とても冷たく、水は澄んでいる。
「ここ、知ってたんですか?」
「ん?ここ通ってきたから。消えかけてたけど看板があったし。」
 逆方向からきたのだ。それには気が付かなかっただろう。
「しかし、あれだな。」
 棗も菊子の隣に座ると水に触れた。
「何ですか?」
「滝業って知ってるか?」
「あぁ。お坊さんが修行の時とかにする奴ですね。」
「あんなのこの滝でしたら、煩悩どころか体もバラバラになりそうだ。」
 その言葉に、菊子は思わず笑ってしまった。
「確かにそうかもしれませんね。滝業って……。」
「何だよ。」
「いいえ。何でも。」
 本当は棗が滝業を受ければいいのにと思っていた。そうすれば菊子に手を出そうと思っている煩悩がなくなるだろうに。そう思っていたのだ。
 だが、こうして気を使ってくれる。元々面倒見がいいのかもしれないが、菊子に対しては本当に気が回る男だ。好きだという言葉も、真実味がわいてきた。
「……菊子。気分どうだ?」
「おかげさまで、元に戻ったみたいです。」
「そうだな。顔色も元に戻ったようだ。けど、さっきまでお前相当顔色悪かったな。それに……思い詰めてた。」
「……え?」
「なんかあったんだろう?女湯で。」
「……別に何もないですよ。表情暗いですか?」
「あぁ。そんな状態だったら、俺なら店に出るなって言うな。」
 そういって棗は菊子の方に手を伸ばす。それを菊子は拒否するように振り払い、立ち上がった。だがそれを良しとして、棗はそのまま立ち上がると菊子の体を後ろから抱き寄せる。
「や……。」
「良い匂いだな。菊子。首に跡を付けて良い?」
「駄目です。離して。」
「だったら言えよ。誰に会ったんだ。」
 言わないと離してくれそうにない。菊子は乾いた声で言う。
「……綾さんに。」
「やっぱりな。」
 女湯だということで、会ったのはおそらく綾か、牡丹だろうと思った。だが牡丹ならもっとひどく落ち込んでいるかもしれないし、牡丹の方が菊子に会わないかもしれない。
 綾なら何も知らないのだと思っている。だからあんなパフォーマンスをしたのは、ちょっと歌のうまい高校生がいるというくらいの印象だろう。
 そして綾の性格ならば、おそらく菊子に敵対心を燃やしているはずだ。これ以上、自分のライバルを増やしたくなかったから。音楽の世界もまた人を踏み台にしないとのし上がれない世界で、踏み台にしていたと思ったら自分が踏まれていることもある。そんな世界なのだから。
「菊子。お前はやっぱり俺のところに来いよ。」
「……いやです。」
「俺が守るから。蓮じゃ駄目だ。あいつはお前が一番じゃないからな。」
 すると菊子は首を横に振った。すると棗は抱きしめている手の力をいれた。
「どうしてだ。あいつの一番は仕事とか、音楽とかだろう。お前はその次ですらないんだから。」
 その言葉に菊子は驚きを隠せなかった。それは昔、蓮から言われたことだったから。
「……私も同じことを言われました。」
「誰に?」
「蓮に。私の一番は仕事で、蓮はその次にすらなり得ないって。」
「……。」
「でも……私は蓮を求めてます。」
「クズだって言ってんだろ。」
「だったら私もクズですね。」
 その言葉に棗も少し笑った。
「……卑下するなって言ってんだろ。俺まで惨めになる。」
「どうしてですか?」
「ずっと言ってるだろ?俺はお前に惚れてるんだから。一気に忘れさせやがって。」
 その言葉に菊子は棗の方をみようと、後ろを振り向こうとした。すると棗はその菊子の顔をのぞき見る。すると思ったよりも近くて、菊子の体がのけぞった。
「危ねえって。」
 もう少しで、バランスを崩して川に落ちるところだった。棗の手が菊子の腰に回って支えてくれたのが良かったのだろう。
「ありがとうございます。」
 正面から抱きしめられているようだった。棗からも石鹸の匂いがする。
「……菊子。」
 すると棗は菊子をのぞき込むと、顔を近づけ始めた。
「や……それとこれとは……。」
「黙れって。」
 唇が重なる直前、棗は何かを言った。そしてむさぼるように、唇を重ねた。滝の音が水の音をかき消す。
 棗はそのまま何度も唇を重ねた。菊子を逃がさないように、棗は菊子の手を握る。その手はまだ少し熱い。
「ヤバ……。」
 唇を離して、棗は少しうつむいた。
「……何ですか?」
 菊子の手はそれを何度重ねても、棗の体に触れることはなかった。だが菊子のその反応で、棗は少し笑った。
「……立ってきた。」
「正直ですね。」
「くそ、菊子。ここでするか?」
「やです。自分で何とかしてください。」
 そのとき菊子の携帯電話が鳴った。相手は昌樹だった。蓮からの連絡はまだない。
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