夏から始まる

神崎

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温泉街

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 瓶に入っているコーヒー牛乳は、とても甘ったるい。だがそれがおいしいと思う。棗はそう思いながらそれにもう一口口を付けた。すると女湯から、菊子が出てきた。旅館から借りた浴衣を着て、髪をあげている。頬は湯上がりらしく赤く上気し、後れ毛が色っぽいと思った。
「すいません。つい長湯をしてしまって。」
 そばにいた昌樹が笑いながら言った。長い癖毛がしっとりしている。
「へぇ。なかなかじゃん。」
「何がですか?」
 細いし身長が高いのであまり浴衣類の和服は似合わないかと思った。だが割と様になっている。普段和服を着慣れているからだろう。
「昌樹。友紀に怒られるぞ。」
「居ないんだから良いじゃん。言うだけ。言うだけ。菊子ちゃんも何か飲む?」
「え……そうですね。じゃあ……フルーツ牛乳を買おうかな。」
「コーヒー好きだって言ってたのに?」
 自動販売機でフルーツ牛乳を買うと、菊子はその蓋を手慣れたようにあける。
「この時間にコーヒーを飲んだら寝れなくなるので。」
「へぇ。寝る気なんだ。」
 ずっと黙っていた棗が声をかける。だがその言葉に菊子の眉間にしわが寄る。
「どういう意味ですか?」
「バンドの打ち上げで、一番若い奴が寝れると思うなよ。」
 驚いて昌樹を見ると、昌樹は両手を振って否定した。
「まさか。高校生に最後まで起きてろなんか言わないよ。」
「……ですよね。」
 菊子の様子がおかしい。普段と変わらないように見えるが、なるべく明るく振る舞おうとしている。それは無理をしているときだ。
 女湯で何かあったのだろうか。休憩所を見れば、おばさんばかりだと思うがそんな噂好きのおばさんの言葉など気にしないだろうに。
 温泉施設をでて、川岸の道路を歩きながら昌樹は鼻歌を歌っている。今日のライブはみんな気持ちよかったのだ。
「明日もいるのか?」
 棗は朝に帰るらしい。宿の冷蔵庫にハムやチーズをいれているが、さすがに気になるようだ。
「友紀がな、「black cherry」のファンなんだよ。それを見るのを条件に連れてきたんだけどな。」
 そのバンド名に菊子の表情が硬くなる。
「あー。言ってたな。ほら、あのキーボードの男が好きなんだって言ってたわ。」
 文也のことだろう。確かに甘い顔で女性には人気があるらしいが、他のメンバーにはそれなりにスキャンダルはあるのに、文也には全くその香りがしない。クリーンで真面目。それが世の中の評価だった。
「面食いだからな。あいつ。」
 その言葉にトロンボーンの男が笑いながら言う。
「お前を旦那にしてるんだ。お前がすごい自信に見えるぞ。」
「俺もいい男だろ?な?菊子ちゃん。」
 ふと菊子を見ると、顔がまだ赤い。長湯をしていたと言うが、その顔色が良くなかった。
「……大丈夫?ふらふらしてる?」
「……湯あたりしたんでしょうか。すぐ元に戻ると思うんですけど。」
 すると棗が少し走って、自動販売機でスポーツドリンクを買った。そしてそれを菊子に手渡す。
「ほら。」
「あ……すいません。」
「ゆっくり飲めよ。それから……もう少し歩いた方が良いかもしれないな。」
「部屋の方が冷房きいてていいんじゃないのか?」
 トロンボーンの男がきくと、棗は首を横に振る。
「急に体を冷やすと良くない。水分をとって徐々に冷やしていくのが良い。汗を十分にかいてな。」
 おそらく湯あたりもしているのだろうが、何か違う事情がありそうだ。女湯で何かあったのだろうか。そのとき、菊子の携帯電話が鳴った。それを取り出すと、少し笑う。
「蓮か?」
「いいえ。」
 画像が張り付けてあるメッセージ。そこには梅子の姿があった。いつか海で撮っていた水着の写真。修正が終わったので、送ってきたのだろう。
「へぇ。良い体してんな。この子何?菊子ちゃんの友達?」
「えぇ。幼なじみです。」
「芸能人なんだね。」
 トロンボーンの男は画像を見て笑っていたが、昌樹は複雑そうな顔をしていた。
「どうしたんだ。」
「イヤ……んー……何て言っていいかなぁ。」
 昌樹は頭をかいて、複雑そうに笑う。その様子に菊子は感づいた。
「そういう人は多いですよ。気にしないでください。」
「え?」
「友紀さんには黙っておきますから。」
 ばれた。すべてお見通しというわけだ。
 いつか常連の客の男数人が、この女子高生だという女を店に連れてきたのだ。
 朝方。店をクローズにした後、内側から鍵をかけると女をソファーに押し倒した。女は抵抗もせずに、むしろ楽しんでセックスをしたのが印象的だった。
 それ以来会ってない。あのときの昌樹は節操がなかったのだ。その行為が友紀を裏切っているとわかっていても、一度きりなら許されると自分に甘いことを思いこんでいた。だが未だに忘れていないのは友紀に対する罪悪感からかもしれない。
 宿の前についても、菊子の顔はまだ赤い。その様子に棗は、昌樹に言う。
「こいつ、もう少し歩かせるわ。」
「いいのか?」
 トロンボーンの男がそうきくと、昌樹は苦笑いをして送り出す。
「良いよ。蓮には言っておくから。」
 イヤな奴に弱みを握られた。昌樹はそう思いながら、行ってしまう二人の背中を見ていた。

 川の風が涼しく感じる。徐々に日差しがなくなり、夜になろうとしていたのだ。
「車出してやるよ。」
「え?」
「で、窓全開にして、走ってたら案外収まるかもしれないし。」
 宿の隣には、駐車場がある。泊まっている人専用の車だ。バンドのメンバーが乗ってきた車とは別に、確かに見覚えのある赤い車が停まっている。
 棗はその車の鍵を開けて、菊子を助手席に乗せた。
「浴衣で運転するんですか?」
「足下はサンダルだよ。」
 ちゃっかりしてる。そう思いながら、車にエンジンをかけた。
「ラブホでも行くか?」
「……降りて良いですか?」
「冗談だよ。来るとき、気になるところがあったんだ。ちょっと行ってみて良いか?」
 ギアをバックにいれようとして、棗は手を止めた。そして菊子の方をみる。
「まだ熱いな。」
 頬に触れた。すると手のひらに温もりを感じる。
「まだ熱いです。」
 すると棗はその頬を包み込むように両手で触れると、その赤い唇に唇を寄せようとした。
「こんなところでやめてください。」
 すると棗はふっと笑い、手を離した。
「まぁ……今すぐ俺はしたかったけど、ここじゃ宿から丸見えか。さすがに他の奴らに見つかるのはな。」
 棗はそういって手を離すと、ギアをバックにいれて車を出した。
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