夏から始まる

神崎

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温泉街

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 大浴場へ行ってしまった涼子と友紀は菊子にも考えたいことがあるのかもしれないと、無理に誘わなかった。部屋に一人で行る菊子は、携帯電話で蓮に連絡をしてみたが、結局繋がらない。小火騒ぎで一悶着あった祭りだったが、夜になっても騒ぎが収まっていないのだろう。
 菊子はため息を付いて、外を見る。川や山が見える。そこは田舎の町で、菊子がいる町とはまた違った風情がある。夜になってもあまりにぎわうことはない。かろうじてスナックがあるくらいだろう。こんな夜まで騒がないのだ。
 元々は湯治をする客目当ての町らしい。
 そのとき部屋のドアがノックされた。
「どうぞ。」
 声をかけると棗が入ってきた。
「あれ?他の奴らは?」
「大浴場へ。」
「ふーん。お前行かなかったの?」
「後で行こうかと。」
 棗はその様子に感づいたようにいった。あの店だ。旅行なんかにもほとんど行ったことがないし、団体行動は学校でする林間学校などしかないのだろう。
「なぁ。菊子。外の温泉行かないか。」
「外って?あの川岸の?」
 菊子が指さしたのは、川岸にある温泉だった。確かに温泉ではあるが目張りも何もされていないし、何より混浴だ。それにはいるのは大浴場にはいるよりも勇気が必要だろう。
「バーカ。俺でもあそこに入る気はねぇよ。外の温泉施設ってことだ。」
「外の?」
「そう。ちらちらあるぜ。ここの名前だしたら安く入れるらしいし。それにそこだったら知ってるヤツもいないだろう?」
 どうしてこんなに自分のことがわかるのだろう。そうだ。棗は若く見えるが、もう三十を過ぎている。それに従業員を雇えるほどの経営者だ。菊子のような人をいつも見てきたに違いない。
「……わかりました。」
 蓮からの連絡はまだ無いだろう。それに食事の時間にもまだ時間はあるし、外の温泉施設ということは男女に分かれている。棗とはいることもないと思ったのだ。
「行く気になったのか?」
「汗でべとべとするから。」
「気にしねぇって。俺は。」
 相変わらずだ。何をしても手を出してこようとするのだろう。
 菊子は携帯電話と小銭を手にして、棗と部屋を出る。すると隣の男部屋から、トロンボーンの男が出てきた。
「お、どっか行くのか?」
「外の温泉施設。そっちの方が広いって聞いたから。」
「へぇ。じゃあ俺も便乗していい?」
 そう言って男はまた部屋に入っていった。
「あいつ、さっきも風呂入ってたのにまた入るのか?」
「好きなんでしょうね。」
 余計なヤツが入ってきたものだ。棗はそう思いながら、菊子の方をみる。
 菊子の頭の中にはきっと蓮しかいない。だが自分に振り向いたときもあるのだ。それは菊子と体を重ねたとき。絶頂に達する度に体に抱きつかれ、棗を求めてくる手が熱い。たどたどしさのなくなったキスも、声も、あのときだけは自分だけのものだ。
「いくらくらいいるかな。」
「半額になるって言ってた。でも元々安いからな。」
 トロンボーンの男もガマ口の小銭入れだけをポケットに入れて、三人は階段を下りていく。すると今度は昌樹にあった。
「どこ行くの?飯までもう少し時間があるみたいだけど。」
「外の温泉施設。」
「マジで?俺も行く。タオル借りれるかな。」
 ますます二人でいれる時間はなさそうだ。棗は心の中でため息を付く。

 手足を伸ばして入る湯船は久しぶりだ。時間がそんなにあるわけではないし、シャワーでいつもすませていた棗にとってこの時間は貴重だった。
 湯上がりの菊子はきっと色っぽい。そのまま抱きたくなるかもしれないが、それは今日はセックスどころかキスすら出来るかわからない。思ったよりも邪魔が入る。それに蓮もいるのだ。
「あー。」
 すると隣に昌樹が座ってきた。
「どうした。疲れたか。」
「割と。」
 長距離の運転が慣れていないわけじゃない。だがやはりギターはまだブランクがある。弾いていない間にも、蓮はどんどん上手くなっている。パンクしか弾きたくないと言っていたのに、こんなぬるい音楽も弾けるようになったというのは予想外だった。
「お前さ、聞きたいことがあるんだけど。」
「何?」
「菊子ちゃんと何かあったか?」
「は?」
「あのレコード会社の人が来たとき、お前、あの二人を追って出て行ったって友紀から聞いたよ。」
「……。」
「菊子ちゃんのことは蓮に任せればいいんじゃないのか。恋人なんだろう?」
「まだ一ヶ月か二ヶ月くらいしかつきあってねぇよ。なのに蓮はすぐに一緒になりてぇとか、眠いことばっか言ってんだから。」
「まぁ……早すぎる決断だとは俺も思うよ。それに、そのためにせっかく来たチャンスを棒に振るのもな。」
 湯船のお湯を手ですくい、それを顔にかける。いいお湯だ。このまま思っていることもすべて湯の中に溶けだしてしまえばいいと思う。
「……あれはチャンスじゃねぇから。」
「チャンスじゃない?」
「罠だな。俺には家族はいないが、あんな家族ならいらねぇ。」

 そのころ、女湯では菊子が湯船に浸かっていた。少しとろみのあるいいお湯だと思う。それにこんなに手足が伸ばせる湯船は久しぶりだ。
 周りに人はいるが地元の人が多いようで、近所の噂話に花を咲かせている。他人と風呂に入るなんてと思っていたが、思ったよりも若い菊子には目も向けない。そんなものなのだろう。
 だがその人が入ってきたとき、さすがにおばさんたちがぎょっとした目で彼女を見ていた。
「あぁ、すごい髪の色ね。」
「嫁だったらがっかりするわ。」
 湯船の湯気越しにみるその人は、綾だった。小さい体なのに、胸が大きく、髪の色は白にも銀にも見える色だった。それを頭の上でまとめているが、胸以外は子供に見える。
 綾は体にかけ湯をすると、湯船に入ってきた。そして菊子の方に視線を送った。
「あら。」
 まずい。いることがばれた。菊子は気まずそうに、視線を逸らそうとした。しかし綾の方が近づいてくる。
「さっき歌ってた子よね。」
 やはり見ていたのか。菊子は笑顔を浮かべてうなずいた。だがその笑顔はきっとひきつっていたに違いない。
「やっぱり。あたし綾っていうの。知ってる?」
「はい。一度、ライブを見せていただきました。」
「明日もするの。あなた見てくれる?」
「夕方には帰ろうと思ってて……。」
 今日は店を休んだが、明日は店が定休日だ。だからゆっくり帰ればいいと女将さんも言ってくれている。
「だったら見ていってよね。あたしたちの出番は昼間なの。」
 少し歌えるのはわかる。だがプロではないのだ。その実力の差を見せつけたい。
 蓮の恋人だと言っていた。あのころよりも上手くなった蓮。きっと菊子がいれば、蓮もみる。プロにならないかと声をかけているらしいが、そんな甘いことではプロとしてやっていけない。それを見せつけたかったのだ。
「是非。」
 そう言って菊子は湯船からあがっていった。その後ろ姿を綾はじっとみる。
 美咲に似ていると思った。少し骨っぽい体だが、触るときっと柔らかい。細い体なのに胸は大きく、腰は締まっている。長い手足と指も長い。
 美咲に似ているから蓮は惹かれたのだろうか。だとしたら菊子が可愛そうだ。美咲を重ねているのだから。
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