夏から始まる

神崎

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温泉街

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 楽器をしまいながら、菊子は先ほどまでの演奏を思い出していた。アンプもない、マイクもない、ないない尽くしのバンド演奏だったが、気持ちよかった。歌ったのは一曲だけ。それもまた昌樹がアンコールに歌ったが、それでも自分の演奏で拍手や声援を送られるのはとても気持ちがいい。
 それは隣でベースを弾いていた蓮も一緒だった。あまり進んでするジャンルではないし、色んなことがあったバンドだったがそれでも音楽が楽しいと思える。それは棗も一緒だった。
「俺、またギター始めるか。」
 棗はそう言うと蓮は笑いながら言った。
「埃をかぶってないか?」
「質には出してねぇよ。」
 そう言って笑っていた棗たちに、昌樹が近づく。
「今日はありがとうな。」
 その言葉に菊子も立ち上がって頭を下げた。
「すいません。私たちが余計なことをしたんじゃないんですか。」
 その言葉に昌樹は少し笑った。
「余計なこととは思ってないよ。結果的に演奏は出来た。ステージじゃないし、ミスもたくさんあったけど。結果的にお客さんが楽しんでくれればそれでいい。」
 バンドをする前に蓮も同じことを言っていた。完璧は望んでいない。音楽は奏でる人と、聞く人が満足できれば一番いいのだと。
「……菊子ちゃん。」
 昌樹は頭をかきながら言った。
「はい。」
「また誘っていいだろうか。今度は俺がサックスに専念するから。」
「サックス吹けるんですか?」
 驚いたように菊子は聞くと、昌樹は笑いながら言った。
「大学の時はジャズ研でね。バリトンだったんだ。」
「すごい。」
「だったらあのうるさい女の代わりに吹けばいい。戻ってこないだろう?あいつ。」
 蓮がそう言うと、昌樹は複雑そうな表情になった。
「あいつを怒らせると怖いぞ。昌樹。」
 トロンボーンの男が楽器をしまいながら言う。
「噂だろ?そんなの真に受けるな。」
 昌樹はそう言ってトロンボーンの男をたしなめる。
「何?」
 菊子は不安そうに蓮を見上げた。すると蓮はため息をついていった。
「あの女、見たことある。バンドに来る前にな。」
「蓮。」
 昌樹はそれを止めようとした。しかし蓮は菊子に言う。
「あの女、おそらく圭吾の女だろう?」
「圭吾って……武生のお兄さんの?」
 何度か店にも来たし、小さい頃は武生の家に遊びに行くこともあった。そのとき圭吾とも省吾とも会ったことがある。だから菊子にとっては顔なじみの人だった。
「あんた、知ってるのか?」
 焦ったように昌樹が聞くと、菊子はうなづいた。
「うちのお客様ですから。」
「そっか……。」
「その方は、ここでは見たことないんですけど……圭吾さんがお店に来るとき、たまに連れてくるお客様の一人でしょうか。」
「一人じゃないのか?」
 棗は驚いたように菊子に聞く。
「何人かいらっしゃいますよ。もちろん、そんなこと他では言いませんけど。昌樹さん。」
 菊子は昌樹の前に立つと、首を横に振る。
「その方を切ったからと言って、圭吾さんが動くとは思えません。店を一軒つぶせば、それだけみかじめ料も入りませんし。」
 確かにそうだ。昌樹はそう思って安堵のため息をつく。
「じゃあ、今日はもう温泉でも浸かって、ぱぁっと打ち上げでもするか。」
「良いねぇ。」
 棗が一番に食いついた。酒が好きで、人が好きな棗らしい。
「バーカ。お前今から帰るんだろ?」
 蓮はそういって茶々を入れる。
「店は治にでも任せるか。なぁ、俺が泊まれるスペースねぇ?」
「いいんじゃない?男部屋一人余裕があるじゃない。」
 友紀はそういってサックスのケースを閉じた。そのとき、さっきステージで火だるまになりそうだったバンドの男が控えのテントに入ってきた。
「おー。楽しそうだな。」
「あぁ。お前のところ大変だったな。演奏も一曲しかできなかったし。」
 すると男は少し気まずそうに、昌樹に耳打ちをした。
「……何だって?」
 その様子に昌樹も耳を疑った。
「……おかしいんだよ。うちのギターがさ、そんなコード使うとは思えねぇし。それにあのコードさ。」
 アンプが炎上したそのギターとアンプを繋げるコード、エフェクターを調べてみると、どうやらナイフなどの鋭利な刃物で傷つけられた後が見つかったそうなのだ。
 その言葉に蓮は首を傾げた。
「……漏電しただけじゃないってことか?」
「あいつに恨みでもあるヤツがいるのか。まぁ……心当たりを調べればいくらでも出てきそうなヤツでもあるけど。燃え具合が悪かったら火だるまになってたし、どっちにしても危ねぇ話だ。」
 わざとコード類に傷を入れる。それはおそらく非力な女でも出来ることだ。その心当たりがないわけではない、と言うのに場の空気は少し明るくなったが、菊子の心の中には不安が生まれた。
 もしそのバンドではなく、次にあるバンドが狙いだとしたら。演奏をさせないためにそうしたのだとしたら。自分がここにいることで迷惑をかけたのではないかと思っていたのだ。

 部屋に戻ってきた菊子は、楽譜を鞄にしまう。そして涼子も友紀もそれぞれの楽器を鞄の横に置いた。
「温泉はいりたいなぁ。」
「大浴場はもう少しであくって言ってたよ。」
「本当?じゃあみんなで一緒に行きます?」
 実は菊子はあまり大浴場でみんなと一緒にお風呂に入ったことがなかった。だから女性同士とは言え、裸を見られるのは抵抗がある。
「……うーん。」
 全く知らない人同士なら、ただの景色かもしれない。だが友紀も涼子も知っている顔なのだ。
「ねぇ。菊子ちゃん。」
「はい?」
「やっぱり今日は、蓮さんと一緒にいた方がいいんじゃない?」
「どうしてですか?」
 友紀の問いに、菊子は首を傾げた。
「つきあってどれくらい?」
「一ヶ月か……二ヶ月無いくらいですかね。」
「一番楽しい時期なのにさ、別々の部屋で休むってどうなの?」
「……連れてきてもらってますし。」
「いいのよ、そんなのは。」
 涼子もそれに答えてきた。
「はぁ……。」
「それにあの棗って人さ、絶対菊子ちゃんを狙ってるよね。」
 その言葉にドキリとした。狙っているというか、もう手は出されたのだから。
「あれだったら、こっそり抜けても良いしさ。ほら、この町から少し戻ったところにさ、ラブホがあったじゃない。」
「……。」
 歯切れが悪い。どうして素直について行くと言わないのだろう。
「菊子ちゃん。どうしたの?」
「……あの……正直に言って良いですか。」
「どうぞ。」
 涼子も友紀も座り込んで、菊子の話に耳を傾ける。
「私、こんなに大勢の人と泊まることがなくて。旅行も修学旅行くらいしか行ったことがないんです。それで……ちょっと戸惑ってて。」
「だったら二人で居た方が良いじゃない。緊張する?あたしたちと一緒にいて。」
「……でも蓮は、そっちの方がいいのかと。」
 仕事と音楽しかない蓮のことだ。菊子といることが苦痛ではないのだろうか。余計なことを考えさせていないだろうか。
 実際、今日、西と綾をのぞいた「black cherry」のメンバーと会っていたとき、棗が先に助けに来た。その後を蓮がやってきたのだ。
 もっと自分がしっかりしていれば、西の誘いを断れたはずなのに。
「……大人じゃないから。負担になってる気がします。」
 すると友紀は、うつむいている菊子の顔を両手で包み込むようにして上げた。
「そんなことを言ったら、あたしだって子供よ。」
「え?」
「そんなところでも完璧目指さなくていいんだから。良いところばかり見せようと思うからそう思うのよ。」
「そうよ。菊子ちゃん。たまには寂しいとか、会いたいとか言っていいんだから。」
 涼子はそれが言えなかった。高校の卒業式にも皐月と言い合いをしていた。まるで子供のように悪態しかつけず、好きだという一言が言えなくて未だに後悔している。
「わがままではないのですか。」
「誰がわがままなのよ。当然の欲求じゃない。たまには棗さんを見習いなさいよ。」
 涼子は棗という単語に、少し笑った。
「どうしたんですか?」
「いいや。あの人、料亭だったか割烹だったかのオーナーでしょ?」
「そうですね。」
「あんな人の下に付くの大変よねぇ。わがままし放題。」
 涼子はそう言って笑った。それにつられて友紀も笑う。
 菊子も笑いながら、まだ屋台にいる蓮に連絡を取ってみようと思いながら、ポケットに入っている携帯電話に手をのばした。
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