夏から始まる

神崎

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温泉街

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 温泉の臭いのする町は、石畳の町。菊子はその一角の宿の前に立っていた。古い宿で、昔は湯治をする客も多かったらしく一人用の小さな部屋もあるように見えた。
「菊子ちゃん。こっちに。」
 案内されたのは二、三名様用の部屋で、泊まる女性が三人ということを考えると少し余裕はあるようだ。
「蓮さんはギターを見つけたっていってくれたよね。」
 友紀はそういって荷物を下ろした。涼子もそれに習う。
「うん。でもよくスカのギターなんて弾いてくれる人がいたよね。」
 菊子は荷物をおくと、窓から外を見た。山間の温泉街は、そこから石畳がよく見える。雨が降ると滑るだろうなと思いながら、それでも風情はあると思っていたのだ。
「菊子ちゃんさ。」
 百合が声をかけると菊子は驚いたようにそちらを見る。
「はい。」
「今日って蓮と一緒の部屋じゃなくていいの?」
「どうしてですか?」
「どうしてって……ねぇ。」
 涼子に同意を求めるように友紀は涼子を見る。
「高校最後の夏でしょう?だったら彼氏と一緒にいたいとか思わないの?」
「……でも誘って貰って、宿まで取って貰ってるのですから。一緒の部屋にとは……。」
「この部屋はバンドの人だから優先的に予約が取れただけよ。」
「……。」
「どうして一緒にいたいとは思わないの?」
「考えもしませんでした。」
「え?」
「演奏のことと……仕事のことしか最近頭になくて。そのあとのことはあまり考えてなかったです。」
 すると友紀と涼子は顔を見合わせた。似たようなカップルなのだろう。一つのことをしようとするとそれにしか頭が回らない。不器用だと思う。
 そのとき、部屋の向こうにいた人影が足を止めて声をかける。
「なぁ。みんなで祭りの会場へ行こうって言ってるけど、女たちはどうする?」
 ふすまを開けたのは、ドラムの男だった。
「いいね。行こうよ。」
「歩いていける距離でしょう?」
「もちろんだって。駅からは遠いけど、会場までは近いんだとよ。」
「菊子ちゃんも行きましょう?」
 会場には蓮が居る。それに探してくれたギターもいるだろう。

 祭りの会場は山を切り開いた広いグラウンドみたいなところだった。芝生が敷き詰めてあり、おそらく普段はサッカー場みたいなところなのだろう。奥には野球場も体育館もある。総合的な運動公園と言ったところだ。
 祭りが始まったばかりで、奥のステージにはジャズバンドが客をあおっている。菊子の地元でしていた祭りとはレベルが違うらしく、それぞれに固定のファンが居るようだ。
「……。」
 「rose」の屋台はすぐ見つかった。まだ日が高いうちだからだろうか、客足も閑散としていた。
「あら。菊子ちゃん。」
 その屋台には、百合が一人出来た客に酒を作っていた。
「お疲れさまです。あの……つまみどうですか?」
「結構評判良いわ。そのままナッツとか渡すんだったら他の店と変わらないけれど、うちはひと味違うって言ってくれている。」
「良かった。余計なことを言ったのかと思ってました。」
 その答えに百合は少し笑って首を横に振った。
「店に帰ってからもそうしようかなって、蓮と話をしていたの。」
「その蓮はどこに行ったんですか?」
 すると百合は笑顔のまま、屋台の裏手を指さした。そこを見ると、棗と蓮が座り込んでベースとギターを弾いていた。
「裏を強調するんだ。」
「もっと強調するのか?わざとらしい。」
「ジャズだって裏だろ?基本は。」
 ギターのヘルプとは棗のことだったのか。菊子は驚いたようにその光景を見ていた。すると棗が菊子に気が付いて声をかける。
「菊子。」
「……ギターのヘルプって、棗さんのことだったんですか?わざわざ呼んだの?」
 蓮もベースを抱えたまま菊子を見上げた。
「たまたま居たんだ。」
「菊子。この町よりも少し向こうにな、知り合いの牧場があるんだ。今度行こうぜ。」
 棗はそういうと、蓮は呆れたように言った。
「お前、本当に見境が無いな。」
「何でだよ。別に良いじゃん。食材を仕入れに行くだけなんだから。」
「……。」
 チーズやバター、肉には興味があるし、是非いきたいと言いたいところだが蓮はそれを許さないかもしれない。
「今度ですね。夏休み中は無理でしょうが。」
「だったら学校が始まって日曜日とかか。日曜は「ながさわ」休みなんだろ?」
「えぇ。」
「だったらそのとき……。」
「日曜はバンドの練習がしたい。」
 蓮はそういうと、棗はくってかかるように言った。
「一日ぐらい菊子を自由にしてやれよ。」
「お前に連れて行かれたら、絶対違うことも教えるだろう?行くなら皐月とか葵とかも連れて行けよ。」
「男を連れていって何が楽しいんだよ。」
 そういって棗はまたコード譜に目を落とした。
「ところで俺、音符読めねぇんだわ。どんな曲だっけか。菊子、ちょっと歌ってくれないか。」
「……私がですか?」
「他に誰が居るんだよ。昌樹はどっか行ったんだろ?」
 確かにバンドのリーダーである昌樹は、祭りの実行委員会の方へ行った。メンバーが変更になったことを伝えに行ったのだろう。
 菊子は蓮の隣に座ると、おいていたコード譜を手にした。しかしそれには歌詞が書いていない。
「……歌詞はうろ覚えだわ。」
「こっちに来い。こっちの譜面には書いてあるから。」
 今度は棗の隣に座る。すると確かにコード譜と一緒に歌詞が書いてあった。
「じゃあ……菊子。声は抑えめで良い。」
「と言うか、ここで菊子が全力で歌ったらステージからひんしゅくを買うな。」
「え?」
 不思議そうに菊子が聞くと、二人は少し笑った。

 昌樹はメンバーが変更したことを、祭りの本部へ伝えに言ったあと、携帯電話を取り出した。楽器を下ろす前に会場を見て回りたいと友紀たちが言っていたのを思い出したからだ。
 友紀に連絡をすると、彼女はすぐに電話に出た。
「もしもし。今どこにいる?」
「「rose」の屋台の前だけど……。」
 友紀の声が歯切れが悪い。何かあったのかもしれないと、昌樹は急ぎ足で「rose」の屋台へ向かう。するとそこには二、三人の男女が足を止めていた。
「ねぇ。良い声ね。何の音源かな。」
 音楽を流しているのかと思った。だがよく聴けば自分たちがする曲だ。本来男の歌なのに、女が歌っている。ということは、誰かが歌っているのだろう。
「百合。」
 屋台にいる百合に声をかける。すると百合は少し笑って屋台の裏手を指さした。
 そこには棗と蓮。そして歌っている菊子がいた。その歌は、昌樹が歌っているよりももっとレベルも次元も違う。そして演奏も普段の蓮とは違って見えた。
 蓮はおそらく普段の練習はバンドに合わせて演奏をしていた。その実力は半分も出していない。なのに今は楽しそうに菊子の歌に合わせている。
「……。」
 確かにヘルプだ。正式なメンバーではない。だが昌樹のプライドが崩れそうだと思う。わざわざ合わせて貰っているのだ。
「昌樹。」
 声を不意にかけられた。振り返ると、そこには友紀がいた。友紀も厳しそうな表情でその光景を見ている。
「ずいぶんバカにされていると思わない?」
「え?」
「所詮趣味だから良いけどさ。彼ら私たちのバンドの時はこれくらいで良いかとか思ってるんじゃないの?」
 その言葉に昌樹はふっと笑った。
「それはお前もそうだろう?」
「え?」
「今回お前にはサックスを吹いて貰うけど、サックスだから余裕はない。でも予定通り、キーボードだったらお前も実力を半分も出さないで手を抜いていただろう?」
「そう思う?」
「あぁ。」
 ヘルプなのだ。このイベントが終われば、また牡丹が戻ってくるかもしれない。
「あ……そうだ。見間違いかもしれないけどさ、さっき牡丹さんを見たわ。」
「牡丹?」
「隣に背の高い男が居たけど、牡丹さんって結婚していたかしら。」
「さぁ……あいつ、あまり自分のことを話すようなヤツじゃないからな。」
 やはり喧嘩をするように出て行った牡丹でも、ここに来たというのは気になったのだろう。素直になればいいのに。昌樹はそう思いながら、その自分たちがする曲とはまるで別の音楽を聴いていた。
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