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真実
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今日は冷たい茶碗蒸しの評判が良かったと、女将は少し機嫌が良かった。だがその女将と対照的に、大将の表情は浮かない。皐月にいつもつきあって貰って酒を飲んでいたが、今日は風呂上がりにビールを一缶開けてすぐにベッドルームへ行ってしまった。
「……どうしたんですかね。」
皐月は少し心配そうに見ていた。そしてそれと入れ替わるように、菊子がお盆を持って戻ってきた。
「もう熱が下がりましたよ。」
一日眠っていた葵は、だいぶ体調が回復したらしい。今日は忙しい方ではなかったが、葵の穴を埋めるように菊子が厨房と部屋を行ったり来たりしていたのだ。お陰で菊子の方が倒れそうだと女将は思う。
お粥の入っていた茶碗を菊子は洗っている。女将はその様子を見てエプロンをはずした。
「菊子さん。今日は練習には行かないのですよね。」
「はい。夕べ練習しましたし、今日は「rose」も屋台のために準備をするそうなので、邪魔してはいけないかと。」
「そう。でしたら、今日は早く休んでくださいね。あなたの方が倒れそうですよ。」
「え?」
「葵さんもあなたも若いから気力で乗り越えてますけどね。頑張るという気力だけでは、いつか疲れてしまいますよ。」
その言葉に皐月は少し女将をみる。そんな言葉を言うのを初めて聞いたからだ。
「そうですね。だからでしょうか。最近変な夢ばかり見て。」
「まぁ……。あまり音楽ばかりを聴いているからじゃないのですか。たまには余計な雑音がない方がゆっくり寝れますよ。」
雑音という言葉には引っかかったが、確かにそうだ。今日くらいはお風呂に入ったらすぐ寝ても良いかもしれない。
「じゃあ、私は休みますから。おやすみなさい。」
「はい。おやすみなさい。」
そういって女将はリビングをあとにして、寝室へ向かった。菊子も茶碗を洗い終わり、エプロンをはずした。
「菊子さん。先に風呂入ってください。」
新聞を読んでいた皐月がそれを閉じて、立ち上がった。
「いいんですか?」
「えぇ。俺は昨日ゆっくり寝たし。」
まるで夕べはあまり寝ていないような口調だ。それは蓮のところにいたからだと言わんばかりで、菊子は視線をそらせる。
風呂から上がり、菊子は皐月の部屋をノックする。
「皐月さん。お風呂あがったので、どうぞ。」
しかし皐月の声は返ってこなかった。菊子は思いきってドアを開ける。すると皐月はベッドに横になってヘッドフォンで音楽を聴いていたようだ。
だが横になっていたのでどうやら眠っているらしい。菊子は部屋にはいると、ドアを閉めて皐月に近づいた。
「皐月さん。お風呂に入りましょう?」
皐月の肩に触れる。思ったよりも筋肉質な肩だ。毎日仕入れた食材を運ぶコンテナを運んでいるからかもしれないし、大きな魚を捌くのには力が必要だからかもしれない。
菊子もいずれこうなるのかもしれないが、今のところ筋肉も脂肪も付きそうにない。
ふとCDラジカセのそばにあるCDを手にする。それは昼間に水樹から受け取ったロックバンド「chocolate」のCDに見えた。水樹から受け取ったものとは違うが、どうやら同じバンドの物らしい。
「これ……。」
そのときあいている左手に温かい物が触れた。おもわずCDケースから手が離れてそちらをみる。すると皐月が眠ったまま菊子の手を握っていた。
「皐月さん。」
菊子はそう声をかけると、皐月は薄く目をあけた。そして手を離してヘッドフォンをとる。
「あ……悪い。寝てた。」
あくびをして眠そうに菊子をみる。
「……ごめんなさい。部屋にはいるようなことをしてしまって。」
「別にいいんじゃないんですか。俺が寝てたから悪いわけだし。」
皐月はそういってベッドから起きあがった。
「あの……皐月さん。このCDって……。」
「あぁ。昔、ホストしていたときの水樹さんの客じゃない客が、姉がCD出したって持ってきたんですよ。自主制作みたいですね。この国では出回ってないし。」
もう一度あくびをして皐月はベッドから立ち上がり、菊子が持っているCDケースを手にした。
「この女性の声が良いですね。少し声楽が入っているかな。」
「……皐月さん。今度このCD借りて良いですか?」
「別に良いですよ。いつでも。」
モノトーンのジャケット。黒い文字でシンプルにCDのタイトルと「chocolate」の文字。その裏を見ると、メンバーの名前が載っている。
ギターやベースの名前は外国の人の名前だろう。だがボーカルだけはこの国の女の名前だった。そしてその名前はやはり「西川天音」と書いてあった。
何故か心に響く名前だった。そしてあのオペラの声が蘇る。
「菊子さん。俺、風呂入るんで。」
「あ、すいません。ぼんやりしてしまって。」
慌てたようにCDケースを置いて、菊子は立ち上がる。そして部屋を出ていく。
リビングで髪を乾かしていた。その間にも頭の中にあの声が耳に残る。
「……。」
いつだったか、両親の宿題のあらを探すために自分で自分の歌を録音したことがある。結果的にはあらだらけで、最後まで聴けなかったが。
そのときの感覚に似ている。表現力は確かにあるし、歌いながら演じているところもよく似ている。だが、高音のピッチが甘いところ、叫ばないと出ない声。そんなところもよく西川天音に似ている。
自分には関係のない人だ。
そう自分に言い聞かせるのに、言い聞かせれば聞かせるほど気になってくる。
いつか母の舞台をみた。母の声質は菊子とは明らかに違う。技術がある母の声だったが、どちらかというと表現力には乏しい。子供を憎み、子供を殺そうとする親の役でもその危機感は無いように思える。
そしてその姿も似ていない。
母は小さい人だ。外国では子供のように扱われることもあるという。菊子が細身で背が高いのは父に似たのだといわれればそうかもしれない。
「……菊子さん。」
ふと声をかけられてやっと菊子は我に返った。
「髪が燃えますよ。」
皐月は風呂から出てもドライヤーの音がするのに気が付いたのだろう。リビングに足を運ぶと、ぼんやりしながらドライヤーで髪を乾かしている菊子をみたのだ。
「あ……。ありがとうございます。」
ドライヤーを止めると、髪がとても熱い。どれくらい当てていたのだろう。
「菊子さん。明日、何時に行くんですか?」
「九時です。」
「それまで休んでた方が良いですよ。」
明日から菊子はいない。蓮と一緒に遠くの町のイベントに出るのだ。温泉街であるイベントは、まるで旅行のようだと皐月は思う。だから浮かれているのかもしれない。
「そうですね。」
ドライヤーをしまい、菊子はリビングから出て自分の部屋に戻る。ドアを閉めようとしたそのときだった。
ドアに足が挟まれた。そしてドアをぐっと開けられる。
「え?」
電気を消していたので暗い部屋の中だった。なのに入ってきたのが誰だかわかる。
「皐月……さん。」
すると皐月は菊子の肩に手をのばす。そして自分の方へ引き寄せた。
「い……イヤ。」
拒否しているのに、皐月はそれをやめなかった。そしてぐっと菊子を抱きしめると、その後ろ頭に手を添える。まだ温かい髪越しの頭。壁に菊子を押しつけると、のぞき込むように唇を重ねた。
「イヤ……。皐月さん。やめて……。」
唇を離したとき、菊子は抵抗するように言葉を発する。しかしそれがさらに皐月をかき立てた。
無理矢理唇を重ねて、舌をねじ込ませる。器用に動くその舌が、菊子が皐月の肩に置いている手の力を緩めさせた。
「ん……。」
唇を離すと皐月は菊子を離して、部屋を出ていった。
呆然としている菊子だったが、壁から離れるとベッドに横たわると自然と涙が溢れていた。
「……どうしたんですかね。」
皐月は少し心配そうに見ていた。そしてそれと入れ替わるように、菊子がお盆を持って戻ってきた。
「もう熱が下がりましたよ。」
一日眠っていた葵は、だいぶ体調が回復したらしい。今日は忙しい方ではなかったが、葵の穴を埋めるように菊子が厨房と部屋を行ったり来たりしていたのだ。お陰で菊子の方が倒れそうだと女将は思う。
お粥の入っていた茶碗を菊子は洗っている。女将はその様子を見てエプロンをはずした。
「菊子さん。今日は練習には行かないのですよね。」
「はい。夕べ練習しましたし、今日は「rose」も屋台のために準備をするそうなので、邪魔してはいけないかと。」
「そう。でしたら、今日は早く休んでくださいね。あなたの方が倒れそうですよ。」
「え?」
「葵さんもあなたも若いから気力で乗り越えてますけどね。頑張るという気力だけでは、いつか疲れてしまいますよ。」
その言葉に皐月は少し女将をみる。そんな言葉を言うのを初めて聞いたからだ。
「そうですね。だからでしょうか。最近変な夢ばかり見て。」
「まぁ……。あまり音楽ばかりを聴いているからじゃないのですか。たまには余計な雑音がない方がゆっくり寝れますよ。」
雑音という言葉には引っかかったが、確かにそうだ。今日くらいはお風呂に入ったらすぐ寝ても良いかもしれない。
「じゃあ、私は休みますから。おやすみなさい。」
「はい。おやすみなさい。」
そういって女将はリビングをあとにして、寝室へ向かった。菊子も茶碗を洗い終わり、エプロンをはずした。
「菊子さん。先に風呂入ってください。」
新聞を読んでいた皐月がそれを閉じて、立ち上がった。
「いいんですか?」
「えぇ。俺は昨日ゆっくり寝たし。」
まるで夕べはあまり寝ていないような口調だ。それは蓮のところにいたからだと言わんばかりで、菊子は視線をそらせる。
風呂から上がり、菊子は皐月の部屋をノックする。
「皐月さん。お風呂あがったので、どうぞ。」
しかし皐月の声は返ってこなかった。菊子は思いきってドアを開ける。すると皐月はベッドに横になってヘッドフォンで音楽を聴いていたようだ。
だが横になっていたのでどうやら眠っているらしい。菊子は部屋にはいると、ドアを閉めて皐月に近づいた。
「皐月さん。お風呂に入りましょう?」
皐月の肩に触れる。思ったよりも筋肉質な肩だ。毎日仕入れた食材を運ぶコンテナを運んでいるからかもしれないし、大きな魚を捌くのには力が必要だからかもしれない。
菊子もいずれこうなるのかもしれないが、今のところ筋肉も脂肪も付きそうにない。
ふとCDラジカセのそばにあるCDを手にする。それは昼間に水樹から受け取ったロックバンド「chocolate」のCDに見えた。水樹から受け取ったものとは違うが、どうやら同じバンドの物らしい。
「これ……。」
そのときあいている左手に温かい物が触れた。おもわずCDケースから手が離れてそちらをみる。すると皐月が眠ったまま菊子の手を握っていた。
「皐月さん。」
菊子はそう声をかけると、皐月は薄く目をあけた。そして手を離してヘッドフォンをとる。
「あ……悪い。寝てた。」
あくびをして眠そうに菊子をみる。
「……ごめんなさい。部屋にはいるようなことをしてしまって。」
「別にいいんじゃないんですか。俺が寝てたから悪いわけだし。」
皐月はそういってベッドから起きあがった。
「あの……皐月さん。このCDって……。」
「あぁ。昔、ホストしていたときの水樹さんの客じゃない客が、姉がCD出したって持ってきたんですよ。自主制作みたいですね。この国では出回ってないし。」
もう一度あくびをして皐月はベッドから立ち上がり、菊子が持っているCDケースを手にした。
「この女性の声が良いですね。少し声楽が入っているかな。」
「……皐月さん。今度このCD借りて良いですか?」
「別に良いですよ。いつでも。」
モノトーンのジャケット。黒い文字でシンプルにCDのタイトルと「chocolate」の文字。その裏を見ると、メンバーの名前が載っている。
ギターやベースの名前は外国の人の名前だろう。だがボーカルだけはこの国の女の名前だった。そしてその名前はやはり「西川天音」と書いてあった。
何故か心に響く名前だった。そしてあのオペラの声が蘇る。
「菊子さん。俺、風呂入るんで。」
「あ、すいません。ぼんやりしてしまって。」
慌てたようにCDケースを置いて、菊子は立ち上がる。そして部屋を出ていく。
リビングで髪を乾かしていた。その間にも頭の中にあの声が耳に残る。
「……。」
いつだったか、両親の宿題のあらを探すために自分で自分の歌を録音したことがある。結果的にはあらだらけで、最後まで聴けなかったが。
そのときの感覚に似ている。表現力は確かにあるし、歌いながら演じているところもよく似ている。だが、高音のピッチが甘いところ、叫ばないと出ない声。そんなところもよく西川天音に似ている。
自分には関係のない人だ。
そう自分に言い聞かせるのに、言い聞かせれば聞かせるほど気になってくる。
いつか母の舞台をみた。母の声質は菊子とは明らかに違う。技術がある母の声だったが、どちらかというと表現力には乏しい。子供を憎み、子供を殺そうとする親の役でもその危機感は無いように思える。
そしてその姿も似ていない。
母は小さい人だ。外国では子供のように扱われることもあるという。菊子が細身で背が高いのは父に似たのだといわれればそうかもしれない。
「……菊子さん。」
ふと声をかけられてやっと菊子は我に返った。
「髪が燃えますよ。」
皐月は風呂から出てもドライヤーの音がするのに気が付いたのだろう。リビングに足を運ぶと、ぼんやりしながらドライヤーで髪を乾かしている菊子をみたのだ。
「あ……。ありがとうございます。」
ドライヤーを止めると、髪がとても熱い。どれくらい当てていたのだろう。
「菊子さん。明日、何時に行くんですか?」
「九時です。」
「それまで休んでた方が良いですよ。」
明日から菊子はいない。蓮と一緒に遠くの町のイベントに出るのだ。温泉街であるイベントは、まるで旅行のようだと皐月は思う。だから浮かれているのかもしれない。
「そうですね。」
ドライヤーをしまい、菊子はリビングから出て自分の部屋に戻る。ドアを閉めようとしたそのときだった。
ドアに足が挟まれた。そしてドアをぐっと開けられる。
「え?」
電気を消していたので暗い部屋の中だった。なのに入ってきたのが誰だかわかる。
「皐月……さん。」
すると皐月は菊子の肩に手をのばす。そして自分の方へ引き寄せた。
「い……イヤ。」
拒否しているのに、皐月はそれをやめなかった。そしてぐっと菊子を抱きしめると、その後ろ頭に手を添える。まだ温かい髪越しの頭。壁に菊子を押しつけると、のぞき込むように唇を重ねた。
「イヤ……。皐月さん。やめて……。」
唇を離したとき、菊子は抵抗するように言葉を発する。しかしそれがさらに皐月をかき立てた。
無理矢理唇を重ねて、舌をねじ込ませる。器用に動くその舌が、菊子が皐月の肩に置いている手の力を緩めさせた。
「ん……。」
唇を離すと皐月は菊子を離して、部屋を出ていった。
呆然としている菊子だったが、壁から離れるとベッドに横たわると自然と涙が溢れていた。
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