夏から始まる

神崎

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真実

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 水樹はお茶を飲んだあと、皐月とともに外に出る。良い天気だ。太陽はもう上に登っている。
「水樹さん。」
 皐月は声をかけると、水樹は少し笑った。
「お前に起こされるとは思ってなかったな。」
 菊子が起こすものだと思っていた。だが十一時ほどになって水樹を起こしに来たのは皐月だった。危うく皐月を抱きしめるところだった。危ない。危ない。そんな趣味はない。
「皐月。お前ここに努めて何年だって言ってたか。」
「二年ですね。ホスト辞めてすぐ。」
「手に職ってのは悪い事じゃないな。俺もどれくらい続けられるかわからないし。」
「水樹さんなら、経営もいけるんじゃないんですか。」
「ばーか。そんな頭ねぇよ。」
 水樹に出来るのは、客の顔色を見て巧みな話をするだけ。あとは歌だ。
「蓮は気が変わらないかな。」
「変わらないでしょう。このままだったら菊子さんを嫁に貰うって言いかねない。」
「っていうか、もうその気だろう?バンドよりも安定した道を選んでるだけでそう思えるけどな。」
 だがそれで満足しているのだろうか。もっと自分の力を高めたいと思わないのだろうか。
「お前、今からどこに行くの?」
「あー。練習です。十月にステージがあるから。」
「何の?」
「ジャズとかスカとか、そういうイベント。俺、ニューオリンズスタイルのバンドから声がかかってて。」
 どおりで皐月の手には大きな黒い革のケースが握られている。そういえばこの男も楽器をしていたといっていた。
「菊子の影響か?」
「まぁ……そんなところです。それに、この店なら案外自由も利くし。店によっては二十四時間、監視されてるようなところもあるから。」
「ふーん。」
 そういって水樹は煙草に手を伸ばした。
「良い意味でも悪い意味でも影響を受けてるな。」
「え?」
「菊子。本当に……。」
 噂程度でしか聞いたことのない女を思い出す。今日、菊子に手渡したCDの主。西川天音。
 音楽にどん欲で声楽を学びに留学をしたのに、そこでバンド活動も始めたのだという。菊子に手渡した二枚のCDのうち一枚は、そのバンド活動をしていたときのものだった。
「菊子さんは、歌ってるときは別人ですよ。」
「本当にそう思った。普段は抜けてるところが多いみたいだが。」
 やがて南口にたどり着く。そこには大きなチェーン店のカラオケボックスがあるのだ。一つのビルがまるっとカラオケボックスになっている。
 最近はカラオケがメインではない部屋もあって、カラオケの機械をおいていない会議室のような空間もある。そこを借りるのだという。
「あの……最後に聞きたいことがあるんですけど。」
 おそらくこんなにがっつりと話すことはなかったし、これからあるかもわからない。だからはっきりさせたいと思って、ついに皐月は気になっていることを聞いた。
 水樹は煙草を携帯灰皿でもみ消すと、皐月の方をみる。
「こんなところまであまり寝ないで来るなんて事、あまりなかったですよね。」
「あぁ。」
「……菊子さんのためですか。」
 その質問に、水樹は少し戸惑った。だが正直に言おう。きっとこの男も菊子に気があるのだろうから。
「あぁ。」
 短い返事だった。だが水樹の頬が少し赤くなっている。
「あいつと歌えればいい。プロになるんだったら、あいつと一緒にしたい。それくらい気持ちが良かった。」
 歌だけという印象を付けたかった。その答えに皐月は少し違和感を感じる。
「水樹さん。菊子さんは料理人になりたいって言ってるんです。それを無視して……。」
「……皐月。お前気が付いてなかったのか?」
「え?」
 だからホストになれなかったのだ。水樹はそう思いながら、皐月に言う。
「あれだけ歌えるのに両親は決して誉めることはなかった。そして料理人としての舌や、和食の店の接客を徹底的に仕込む。それはどうしてか。考えても見なかったか。」
「……どうして……。」
「俺にはあいつが、わざと音楽の道を行かせないようにしている。そうとしか思えない。それに……棗だって……。」
「棗さん?」
「あれだけ強引に自分の店に入れようとしてるんだ。あいつの感情だけじゃないと思う。」
「だったら何だって……。」
「なんか裏があると思う。菊子を歌わせたくない何かが。」
 それをはっきりさせたい。

 一方蓮は、お茶を飲んだあと一度家に帰り身支度をすませると、ベースを持って部屋を出た。少し寝たからか、頭がすっきりしている。だが菊子の話ははっきりと聞けなかった。
 棗と一度寝たのは知っている。だがそのあともあったのか。だからすんなりと自分と寝たのか。慣れてしまったのか。それがわからない。
 煙草を吹かしながら、店へ向かう。そして店の前に立つと鍵を開けた。百合が今日は遅番なので、蓮が鍵を開けるのだ。むっとした空気が身を包み、思わずカーテンを開けて窓を開ける。
 ベースをステージに置き、電気をつけた。そして店の準備をしようとしたときだった。
「蓮さん。」
 窓から顔を覗かせたのは梅子だった。
「あぁ。あんた、菊子の友達の……。」
「梅子。まだ開店してないの?」
「さっき来たばかりだ。ここは二時開店だから。」
「へぇ……。」
「お前、中に入ったらどうだ。」
「いいの?開店前なのに。」
「かまわない。お前にも話があったからな。」
 話というのに梅子は少し違和感を感じながら、店のドアから店内にはいる。
「窓を閉めてくれないか。」
「良いわよ。」
 梅子はバッグをカウンターに置くと、窓を閉めた。すると蓮がエアコンをつけたようで、ブンという音がする。
「ほら。」
 蓮はそういって梅子に濡れた布巾をさしだした。
「え?」
「テーブルを拭け。紙ナプキンとか置いているところは避けて拭くんだ。」
 何であたしが。そう思いながら、梅子はテーブルを拭いていく。あまり大きなライブハウスではない。あまり大物とかを呼べるようなキャパはないだろう。
 蓮もざっとほうきで店内を掃くと、モップを取り出して床を拭く。そうこうしているうちに、店内が涼しくなってきた。
「涼しいー。」
「そんな格好をしていて暑いのか?」
 モップを片づけ終わった蓮は、呆れたように梅子をみる。黄色のタンクトップと、上から白いシャツを羽織り、デニム地のショートパンツというスタイルは、菊子では絶対選択しないだろう。
 それにそのタンクトップ越しでもわかるのは、大きな胸だった。
「まるでホルスタインだな。」
「は?」
 思わず口に出してしまった。蓮は気まずそうにカウンターに入る。
「手伝ってくれたし、何か飲むか?これくらいは奢る。」
「あ、じゃあアイスティーをください。」
「あぁ。」
 ケトルに水を入れてお湯を沸かす。
「甘くするか?」
「ううん。甘くなくて良いよ。甘いものは今絶ってるの。」
「どうしてだ。女は甘いものが好きだろう。」
「好きだけど、太っちゃうから。」
 菊子も同じようなことを言っていた。だが菊子は太っていても、痩せていてもきっと蓮は好きになっていただろう。
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