夏から始まる

神崎

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真実

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 ふと目を覚ますと、ベッドにもたれ掛かるようにして菊子が眠っていた。自分はベッドで、菊子はベッドに入らずに眠っていたのだろうか。菊子の耳にはヘッドフォンがある。おそらく音楽を聴いているうちに眠くなったのかもしれない。
 夕べは遅くなった。菊子も一日仕事をしたあとに、練習をして、そのあとセックスをしたのだ。今朝のことも考えると、菊子がこうして眠くなるのも当然かもしれない。
「菊子。」
 声をかけると、菊子は薄く目を開けた。だがすぐに目を閉じる。
「何時ですか?」
 少し笑って時計をみる。時計は十一時を少しすぎた頃だ。
「十一時。」
 その答えに、菊子は驚いたように目を開けて体を起こす。
「あ……。起こさなきゃ。」
「え?誰を?」
「水樹さんが仮眠をしたいからって、布団を貸しているの。」
 自分も一緒になって寝ていたなど、笑い事ではない。菊子は体を起こして、ヘッドフォンを取ると部屋を出ていった。その姿に、きっとゆっくり寝ている暇などないのだろうなと、蓮は少しため息を付いた。そして蓮も立ち上がると、床に置かれているヘッドフォンをCDラジカセの側に置いた。するとそこには二枚のCDケースがあった。
 一枚はおそらくオペラのCDだろう。和服の女性が海を見ている絵が描かれている。ジャケットの裏を見て、蓮はひきつった。その主役の名前はこの国の女性の名前。「西川天音」の名前があったからだ。
「西川……。」
 そしてもう一枚のCD。それはロックのCDだった。蓮も知らないバンドの名前。おそらく売れていないか、または自主制作のものかもしれない。レーベルがはっきりしていないからだ。外国で販売されているものなら、さらにわからないだろう。
 バンド名は「chocolate」。その名前のように、モノトーンで統一されたバンドのように思える。女性ボーカルで、外国人の中にいても全く違和感がないくらい背が高く細身だった。どこかのモデルのように見える。
「……ん?」
 二枚のCDを見てみると、そのボーカルの女性と、オペラの主役をしている女性。それは同一人物だった。
「と言うことは……西川天音は……。」
 おそらく声楽を勉強しながら、ロックバンドもしていたことになる。それはまるで菊子のようだと思った。
 そのとき菊子が部屋に戻ってきた。
「菊子。水樹が来ているのか?」
「えぇ。音源を今度の同伴があったときに持ってくるといっていたんだけど、こっちに来る予定がしばらく無さそうだからってここまで持ってきてくれたの。」
「良いヤツだな。」
 本当に善意だけでもって来たのだろうか。何か違う狙いがあったのではないかと、少し疑ってしまう。
「その音源を持ってきてくれた。」
 菊子はCDを手にして、そのジャケットを見ていた。
「聴いたのか?」
「聴いてたけど、途中で眠ってしまったわ。」
「……その主役が西川天音って言っていたな。どう思った?」
「どうって?」
 その言い方に菊子は少し違和感を感じた。しかし正直に言う。
「そうね……上手だと思う。表現力があって、きっと本物を見るともっと違うのだろうけど……もう亡くなっているのよね。惜しい人だと思うわ。」
「……ロックもしてたみたいだな。」
 もう一枚のCDを手にして蓮はそういう。
「声楽をしている人がロック?そっちの方が気になるかも。蓮。聴いてみる?」
「そうだな。感覚的にはお前のような人なんだろう。」
「私?」
「声楽からロック。お前も夏前まではそうだっただろう?」
 菊子はヘッドフォンのジャックを抜くと、CDを代えた。そしてスイッチを入れようとしたときだった。
「菊子さん。」
 皐月の声がした。菊子はその声に手を止めてドアへ向かう。
「はい。」
 ドアを開けると水樹と皐月がいた。
「女将さんがお茶でもどうですかって言ってますけど。」
「あ、いただきます。蓮。」
「そうしよう。」
 蓮は内心ほっとしていた。菊子が何も気が付かなくて良かった。そう思える自分が卑怯だと思う。

 そのころ、大将は軽トラックを運転して山道を向かっていた。
 そこは山羊や馬、牛がいて、畑や田圃が青々と茂る。爽やかな風が吹き、もう稲は刈り入れまであともう少しだろう。
 少し小高いところまで歩いていく。そして養鶏場で汗を流す男に声をかけた。
「……西川辰雄君だろう。」
 辰雄は帽子を取り、大将をみる。すると少し驚いたような表情になった。
「……永澤さんでしたか。こんなところまで、立派な料亭の方が足を運ぶなんて思ってもみませんでしたよ。」
「立派といっても歴史はない。君の所の養鶏場のようにね。」
「うちは一度閉鎖したんですよ。大したことありませんね。お茶でも飲みますか。どうせ俺も一服したいと思っていたし。」
「そうしよう。」
 縁側に座っている大将に、冷たい麦茶を入れる。そして自家製の漬け物を添えた。
 だが辰雄の内心は、そんなものを出したくなかった。水の一滴、肉の一かけ、渡したくはなかったのだ。
「……どうぞ。」
 だがここまで料亭の大将である永澤貴人が来るということは、ある程度の覚悟が必要だったに違いない。
「……良いところだ。鶏は小屋から出さないのかな。」
「今年の夏は暑いですからね。あまり暑いと、卵の産みも悪くなるんで早朝とか夕方とかに出してますよ。奴らも、昼間は暑いって思うのかもしれないし出てきませんよ。」
「なるほど。」
 こんな雑談をしに来たんじゃないだろう。早く本題を切りだして欲しかった。
「……ここで西川天音さんは育ったのか。」
「……初めて来ますか?」
「あぁ。もっと早く来てお詫びをするべきだった。」
 麦茶を一口飲み、大将はその息子よりも若いその男に頭を下げる。
「詫びの言葉が見つからない。それが本音だ。どんなに詫びようとも、許されることではないのだから。」
「……。」
 辰雄の手がぎゅっと握られる。このまま殴ったり罵倒してもかまわない。だがそれで何が得られるだろう。自殺した天音はそれで戻って来るわけがない。
「西川君。菊子に会ったと言っていたね。」
「二度。うちで面倒をみていた、男が知り合いだったそうです。姉に似てました。確かに、あの子はあんたの息子と新しい嫁の子供かもしれない。だけど、産んだのは姉です。」
 代理母出産をした天音。だがその妊娠は望んだものではなかった。それに、それが本当に代理母出産だったのか。それもまた疑問が残る。
「もしも、姉の子供であれば、戸崎の家が黙ってませんよ。」
「……それも危惧するところだ。私も女将もみたことはないが、戸崎グループの専務の姉が黙っていないだろうな。」
「戸崎紅子といいます。気が強い女だ。ホストをしていたとき、別の男に付いていた客でしたけど、しょっちゅう癇癪を起こしてましたね。紅子の機嫌を損ねてはいけない。誰もが知っていることでした。」
「……。」
「菊子のことを知ってから、紅子を海外に追いやったみたいですけど今、一時帰国をしてます。」
「……何も知らずに国へ帰ってしまえばいい。」
「えぇ。俺もそう思います。俺自身、菊子は二度しか会ったこともないし、他人です。これからも他人でいればいい。穏やかに、養鶏をして、畑をして、米を作って生きていけばいいと思ってます。」
「……。」
「けど、菊子には望むことがあります。」
「何だろうか。」
「歌で生きて欲しくない。姉が望んでいたことが出来ずに死んだのにのうのうと歌を歌って生きていくなんて、俺らには耐えられませんから。」
「わかっている。だから、菊子には歌を歌うのは趣味の範囲だと言い聞かせている。プロには絶対させない。」
「わかっているならそれで良いです。のんきに、料理なんかを作りながらたまに趣味として歌を歌えばいい。」
「……。」
「頼みましたよ。そうじゃないと……。」
 精一杯だった。辰雄は麦茶を飲み干して、いつもの笑顔に戻っていった。
「卵いりますか?産みたてと、ちょっと時間をおいたヤツありますけど。」
「今日は茶碗蒸しを出したい。時間をおいたヤツを分けてもらえないだろうか。」
「良いですよ。あ、茶碗蒸しって温かいヤツですか?」
「冷製の茶碗蒸しだ。なかなか美味しいよ。」
「良いですねぇ。肉も絞めたヤツがありますよ。」
「分けてもらえるならそれで良い。」
 もう考えない。天音のことも、菊子のことも、何も考えずにここで過ごしたいと辰雄はずっと思っていたのだから。
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