夏から始まる

神崎

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想う人

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 思ったよりも音が馴染んでいた。皐月が言うように、トランペットの女性はよくはずしやすいが、弦楽器と違って管楽器は唇で音を奏でる。つまり唇に何かあれば、本番で音がでないと言う最悪のこともあるのだ。
 だからあまり無理はできない。
「本番は野外だしね。どんな感じになるかな。」
「晴れだよね。」
「あぁ。」
 菊子はまだ納得いかないらしく、せわしなくキーボードのスイッチやつまみを順番通りに当たっていた。
「……菊子。」
 見かねて蓮が声をかける。
「何?」
「あまり根を詰めすぎるな。スカやジャズはロックと違って、ぶっつけ本番みたいな所もあるし、お前もステージに立ったならわかるだろう?」
「……。」
「聴いている奴がどう評価するかは、聴いている奴次第だ。最終的に「良かった」と思えればそれでいい。」
 確かに前に祭りで演奏をしたときもそうだった。自分では納得がいかないステージだったかもしれない。だが客は足を止めて、彼らを見ていた。そして楽しんでいた。自分だって楽しかったのだ。それでいいじゃないか。
「そうね。」
 菊子はキーボードのスイッチを切ると、ステージを降りた。すると百合に声をかけられる。
「菊子ちゃん。何か飲む?」
「そうですね……あ、やはりいいです。」
「どうして?」
「……白湯くらいならいいんですけど……。」
 どうも最近夜遅いこともあって、お腹も空くことが多い。そんなときつい口にしてしまうので、最近少し太ってきた気がする。
「あーら、そんなこと。女の子は少し太ってたくらいがちょうどいいのよ。ねぇ。蓮。」
 蓮は少し笑っていう。
「そうだな。まだお前は成長期だし。」
「もう身長はいらないんですけど。」
 そう言うと昌樹たちが笑った。そのときトランペットの涼子が、菊子に話しかける。
「菊子さん。」
「はい?」
「皐月って板前しているの?」
「はい。してますよ。もう二年になりますか。もう一人いらっしゃいますが、その方と一緒にうちの店で働いています。」
「住み込み?」
「はい。うちは修行中なら、基本住み込みなんです。」
 住み込みをしていた人は、基本的に一人前になったら自分で店を構える。通いで来ている孝は若い頃は確かに自分で店をしていたようだが、いい料理人がいい経営者になれるとは限らない。
 結局「ながさわ」で通いの料理人をしていた。
「その前って何をしてたの?確か高校卒業して、どっかの企業に勤めたって聞いたけど。」
「うーん。その辺はよくわからないんですけど、うちにはいる前はホストをしていたとか。」
 ホストという言葉に、涼子は驚いたようだった。
「あいつがホスト?無理でしょ?」
「何でですか?」
「だってあいつ、女嫌いだもん。」
 嘘だ。だったらどうしてキスなんかしてきたのだろう。
「言い寄られた人なんかいつもこっぴどく振ってたもん。ゲイなんじゃないかって言われてたのよ。」
「そうだったんですか?今は外に遊びに行くこともあるみたいですけど。」
 その様子を聞いていて、蓮はあまり皐月のことを言わないで欲しいと思っていた。多分嫉妬している。自分は菊子を迎えにいけなかった。
 昨日だって最初の電話で要すがおかしいことなんか気がついていたのに、仕事にかまけて菊子のことをおざなりにした。それに気がついたのが皐月だ。皐月は菊子に気がある。だから気がついたのかもしれない。
「まぁ、人って変わるしね。身長は変わらなかったみたいだけど。」
「ははっ。」
 穏やかに話をしている。皐月が想うように、菊子には感情がない証拠だ。
 少しほっとした蓮は床掃除を終えると、モップを倉庫にしまった。そしてあらかた片づいている周りをみる。
「蓮。もう今日はいいわ。」
 百合はそう言って、帰っていくメンバーたちを見ていた。昌樹もそれに習って立ち上がる。
「そろそろ俺も開店するか。たまには蓮も百合も飲みに来いよ。」
「そうだな。何時まで開いていたかな。」
「五時まで。」
「だったらここが終わってもいけるな。たまには行くよ。」
「蓮の好きなアレ、仕入れてるから。」
「マジか?行く。」
 そう言って昌樹は手を振って行ってしまった。そのあとを涼子も行ってしまう。
 その様子を見て呆れたように百合が言った。
「あなたの好きなお酒かもしれないけどさ、モーガンなんてうちにもあるじゃない。」
「知ってるよ。でもそう言っていた方が昌樹も嬉しいだろう?」
 ちらりと菊子を見るが、菊子はカウンター席に座りまだ譜面を見ている。気になる曲があるのだろう。
「菊子。帰るぞ。」
「うん。そうだね。」
 譜面をしまうと、菊子も立ち上がった。
「蓮。」
 百合は声をかけると、蓮は振り返る。百合は複雑そうな表情をしていた。
「どうした。」
「……西さんがライブを見に来るそうよ。」
「……勝手にこらせておけ。俺はそっちに行く気はない。」
 そう言って蓮は菊子の肩を抱いて、外に出ていった。

 公園はもうすでにあまり人気がない。酔っぱらった男たちがベンチをベッド代わりにして眠っている。虫に刺されても気にしないのだろうか。多分、痒くても酔っぱらっていて気にならないのかもしれない。
 蓮は菊子の肩に手を置いた手を少しおろして手を握った。抱き合って眠ったのは一昨日。だが菊子は眠れなかったのかもしれない。だからふらついていたのだ。
「西さんって、レコード会社の人よね。」
「あぁ。俺にどうしても新しく立ち上げるバンドに入って欲しいらしい。その気はないのだけどな。」
 菊子は足を止めて蓮を見上げる。その様子に蓮も気がついて見下ろした。
「どうした。」
「蓮。あなたは私に言ってくれた。したいようにすればいいって。だから料理をしたいって思ったの。けれど、それは私も同じ事を言えるのよ。」
「……。」
「プロのミュージシャンになった方が、自分の力を試せるんじゃないの?」
「……そんなことは思ってない。それに……あの西って男の本当の狙いがわかったら、ますますその話に乗る気はなくなったな。」
「本当の狙い?」
「西のいるレコード会社は、戸崎の家と懇意にしているようだ。おそらく、買収の話も出ているのかもしれない。」
「買収?」
「俺がその会社に入ったとしよう。そのとたんに、会社ごと買収されれば、俺は戸崎グループにはいることになるだろう。」
「……そんなことまでして?」
 最初からプロデビューなどさせるつもりはなかった。蓮を家に戻すための行動だと思えば話は通じる。
 そんなことをしてまで、蓮を家に戻したいのだろうか。菊子は少し不思議に思っていた。
 そして二人で手をつないで南口にさしかかろうとしたときだった。
「あ……。ごめん。」
 菊子の携帯電話が鳴り、その手を離す。こんな時間に誰から電話なのだろう。棗だろうか。非常識を絵に描いたようなヤツだ。あり得る話だ。
「……水樹さんだ。」
 その名前に蓮は驚いたように菊子をみる。
「連絡を取っていたのか?」
「ううん。練習が始まる前にね。聞きたいことがあったから。」
 その聞きたいことで、蓮は少し焦った。もしかして、練習が始まる前に言っていた「西川天音」について聞きたいのではないかと。
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