夏から始まる

神崎

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 慣れないキーボードを頼まれて、菊子は朝の仕事と夜の仕事の間をぬって、数時間だが「rose」に毎日のようにやってくる。だから毎日のように顔を合わせているし帰りは送ることもあるが、夜と違って周りが明るく人が多いのもあり、キスはおろか手を繋ぐことも出来ない。二人っきりで入れるのはこの時間しかないのに。
「あー……。」
 あの嵐の時にセックスをして以来だろうか。それ以来何もしていないのだ。
 煙草に火をつけて、携帯電話を取り出す。そして菊子の所にコールしたが菊子は出なかった。時間は寝ている時間ではないのに、どうして出ないのだろう。
 そのとき蓮の脳裏に、西の言葉が浮かんだ。
「今、誰と一緒にいるかよく考えて。」
 まさか、棗が来ているのか。そう思うと蓮はいても立ってもいられない。
 しかしこの店の片づけもある。あの店の惨状で百合一人に出来ないだろう。どうしたらいいだろうか。
 そのとき携帯電話が鳴った。そこには女将さんの文字がある。
「はい。」
「蓮さん。そちらのお店は大丈夫ですか?」
「……手入れのことですか?うちは大丈夫でしたね。今日はいなかったし、俺らもがっつり調べられましたけど、何にも出てきませんでしたから。」
「そう……それはよかった。」
「そっちで何かありましたか?」
「あぁ。武生さんがね。」
「武生?あぁ。菊子の幼なじみですね。」
「武生さんの恋人の方が捕まってしまって。」
「え?」
 女将は知加子を知らない。だがそういう女性だったのだろう。全ては店のためにしたことだった。だが許される罪ではない。
 そして何より辛いのは武生だろう。一番近くにいたのに、何も気が付いてやれなかったと自殺しそうな勢いだった。
「……そうでしたか。今はどうしてますか。」
「それが……。」
 棗がいきなりやってきたこと。棗のなじみである酒造会社の試作品を持ってきたこと。そこから酒宴が始まり、武生は飲み過ぎて潰れてしまったこと。それを女将は話した。
「あいつらしいですね。俺とバンドを組んでいたときもそんな感じでした。」
「蓮さん。でも……このままでは菊子さんが取られてしまいますよ。」
「……。」
「棗さんは明らかに菊子さんを狙ってます。大将にとってはあなたよりも、棗さんが婿に来てくれた方が都合がいいのかもしれませんがね。私はイヤですよ。あんな人が身内になるなんて。」
「……俺も渡す気はありません。」
「だったらもっとしっかり菊子さんを捕まえていなさいな。」
 女将は電話を切ると、ベランダをあとにした。そして風呂場で音がすると思いながら、夫婦の寝室へ戻ってくる。
 そこには寝ている大将の姿がある。大将は職人のまま、女将の実家である料亭に入ってきた。一本気で、融通が利かない人だったが、そういうところが好きになったのだろう。
 だが女将には当時、女将を嫁に欲しいという人がもう一人いた。それは、昔からお兄さんとして慕っていた男だった。和菓子職人で、一人前になったら迎えにくると約束をしていたのだ。
 しかし結局女将は大将を選んだ。
 和菓子の仕事も職人の仕事かもしれない。だが、お門違いだと思った。結局自分は商売人になれない。そう思いながら、女将は大将の隣の布団に横になる。だがすぐに体を起こして、大将の布団に潜り込み、横になった。
 この温かさが好きだった。そしてこの傷跡だらけの手が好きだった。

 風呂から出て部屋に戻ると、菊子は携帯電話を手にする。着信が一件。それは蓮だった。時計を見ると、まだ仕事の最中だろう。メッセージを入れておこう。
 菊子はそう思いながら、ベッドに腰掛けてメッセージを入力した。
 そして机の上にあるバンドの楽譜をみる。書き込みだらけで、昌樹の奥さんの友紀からも、麗華からもアドバイスを受けたのだ。それを無碍にしてはいけない。そして音楽を聴くためにイヤホンを耳に付けると、スイッチを入れた。
 今度する曲は四曲。それを全て頭に入れないといけない。付け焼き刃だが、出来る限りのことはしたいから。
 おそらく夢中だった。菊子は楽譜と音楽をずっと聴いていて、部屋に誰かは行ってきたことなんかわからなかったのだ。
 すっとイヤホンを片方はずされて、驚いた菊子はそちらをみた。そこには棗の姿がある。
「棗さん。」
「何だよ。お前。まだ起きてたのか?」
 洗い髪のままだ。髪が濡れている。
「今日、練習出来なかったですからね。」
「真面目かよ。その調子で、料理も練習してんのか?」
「料理は昼じゃないと、大将がいないから。」
 夜はしても酔っぱらっていて練習を見てくれないことが多い。昼の一、二時間ほどだったら大将も付いて見てくれるのだ。
「本当に良い店だな。そんな親切丁寧なとこ無いぞ。」
「そうですね。恵まれてます。」
「俺も手取り足取り教えてやるよ。」
 ニヤリと笑う。その顔を見て、菊子はぞっとした。そういうときはいつも何かしてくるから。
「いいえ。結構です。」
 ふとそのとき、棗は楽譜に目を落とした。そして手書きでかいている、そこを指さす。
「菊子。ここな。」
「どこですか?」
 思わず体を寄せてそこをみる。するとその頬に温かくて柔らかい感触が伝わってきた。思わず体をよける。
「わざとですか?」
「当たり前だろう?こんなに側にいるのに手を出せないなんて地獄。」
「勝手に盛り上がっててください。」
「冷たいな。」
 楽譜を閉じて、音楽のスイッチを切る。そしてそれを机に置いた。すると携帯電話の音がした。菊子のものではない。振り返ると、棗が携帯電話を手にしていた。
「あいつ。そんなに心配なのかね。」
 電話の通話ボタンを押すと、棗はそれを耳に当てる。
「あー。うん……。わかってるよ。俺も結構酔ってるし、手を出したらすぐに……ん?心配なら見に来ればいいじゃねぇか。お前はお気に入りなんだしさ。夜遅くても受け入れてくれるだろう?」
 相手は蓮だった。不機嫌そうに棗はその受け答えをし、そして電話を切ると菊子を見上げる。
「そんなに心配なら鎖にでも繋げておけばいい。亭主関白気取りだな。あいつ。」
「棗さんも同じですよ。」
 ため息を付いて少し距離をとるように椅子に座る。ベッドには腰掛けない。おそらく腰掛ければ手を出そうとしてくるだろうから。
「俺が?」
「勝手に決めて、勝手に上がってきたじゃないですか。」
「でも結果は良かっただろう?武生はあのままじゃ死んでたかもしれない。」
「強引なやり方が良い場合も、悪い場合もありますよ。今回は良かったけれど……もし何かあったら……。」
 ぐっと手を握る。「もし何か」と言うのは、武生がそのまま自殺をするとか、棗が刺されるか、そんな最悪のことを想定していたのだ。
「心配か?俺が。」
「……誰も死んで欲しいなんて人はいませんよ。」
 棗は立ち上がると、菊子の前に立つ。それをよけるように菊子は入り口のドアの前まで逃げた。何かあったらここから逃げようと思っていたのだ。
 しかしそれはかなわなかった。二の腕を捕まれて、引き寄せられる。温かい体からは石鹸の匂いがした。
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