夏から始まる

神崎

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可愛くない女

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 朝の仕事を終えて、菊子は自分の部屋で最後の課題を終わらせた。結局この間読み終えた本を感想文に選んだのだ。
 親子のうんぬんは両親が身近ではなかった菊子にとってよくわからなかったかもしれないが、それでも形にはなった。小説家になるわけではないので、別にこだわる必要はないだろう。これで心おきなくイベントに参加できる。そう思っていたときだった。
「菊子さん。」
「はい。」
 ドアを開けると皐月が立っていた。皐月や葵も浅し事が終わりそれぞれの時間を過ごすために、白衣を脱いで普通のTシャツを着ていた。
「蓮さんが来てますよ。」
「蓮が?どうしたのかしら。すぐ行きます。」
 携帯電話だけをポケットに入れると、皐月に促されるように階下に降りていった。確かに裏玄関に蓮の姿がある。
「どうしました?連絡がなかったですよね。」
「うん。ちょっとつきあって欲しいことがあるんだが……。皐月。葵はいないのか?」
「葵ですか?さっきどっか出て行きましたね。」
「そっか。」
 この間コードを一つ、二つ押さえれるようになった葵でも何とかなるかと思っていたのだが、当てが外れた。
「皐月。あんたはこれから用事は?」
「んー。今日じゃないといけないっていう用事はないんですけどね。」
「何かあるんですか?」
「あー。実は俺、感化されたわけじゃないんですけどね。高校の時の部活の仲間が、今度ストリートでニューオリンズスタイルのブラスバンドするとかで誘われてるんですよ。」
「ニューオリンズスタイル?」
「あぁ。つまり、立ったり歩いたりして演奏するヤツだな。普通のブラスバントとは違う。あんた、なんか吹けるのか?」
「トランペットです。って言ってもこっちに持ってきてなくて、トランクルームに預けっぱなしだけど。今日ちょっと出して自分で出来る分でもメンテしようかと……。」
 そのとき蓮の目がきらきらと輝いた。そして皐月も引きずるように皐月も「rose」に連れて行く。

「いい楽器っていうわけではないですけど……くずなヤツよりは良いですね。」
 随分前に親会社が置いていったトランペットを蓮は取り出して、皐月に手渡した。そのトランペットのピストンを動かしたりして、オイルを塗ったりしてメンテナンスを皐月はいすに腰掛けて始めた。
「ずっとしていたんですか?」
「中学と高校だけですよ。まぁ、俺、マーチングばっかでしたけどね。」
「マーチング?」
「マスゲームをしながら演奏するヤツです。あれ結構面白かったですよ。」
 皐月がこんな話をするのは初めてかもしれない。楽しい学生時代だったのだろう。
「菊子。こっちへ来い。」
 蓮はステージでキーボードのコードをいれ終わり、菊子を呼んだ。そしてバンドスコアを切り張りした紙を差し出す。
「この通りに演奏できるか?」
「音はピアノだけでいいんですか?」
「あぁ。それから弾きながら歌ってくれるか?」
「はい。」
 そのとき入り口に百合と昌樹が入ってきた。
「そうよねぇ。困ったものねぇ。」
「ん?今日ライブか?」
 昌樹の目には蓮と、キーボードに立っている若い女。それから料理人が着ているような白いズボンをはいた若い男がトランペットのピストンにオイルをさし終わり、マウスピースを口に当てていた。
「そんな話は聞いてないけど。蓮。どうしたの?」
「ちょっと試したいことがあるんだ。悪いな。店を勝手に借りて。」
「それは構わないけど……。昌樹さん。蓮ちょっと忙しいそうよ。」
「構わない。俺のとこの開店二十時だし、それまでに話が出来ればいいから。」
 本当は昌樹は蓮を今度のイベントにでることを、断ろうと思っていたのだ。これだけ牡丹と相性が悪いのは、ハンドとしてもマイナスになる。それに何より、バンド内からも蓮を外した方がいいのではないのかという声があったのだ。
 蓮が悪いわけではない。だが蓮のためにバラバラになるのは良くない。ここは蓮に引き下がってもらおうと思っていたのだ。
「……皐月。これが楽譜だ。いけるか?」
「音が高いですね。でも何とかなると思いますよ。でも……。」
「どうした。」
「いや、個人的な考えなんですけどね。昔の曲ならともかく、管楽器と歌って共存できないって思ってたんです。」
「相性は良くないだろうな。でもやってみなければわからないだろう?」
「まぁ……そうですね。」
 料理でもこれは合わないだろうと思っていたモノが、案外あうモノもある。やってみなければわからないのだ。
「菊子。あまり声を張り上げないでいい。高い音は抜いても良いから。」
「そうなんですか?」
 案外楽な歌い方だ。声を張り上げないで良いし、高い音もそんなに無い。だがこのあと打ちは難解だろう。普段はしなれないものだからだ。
 蓮もベースをアンプにつなげて、チューニングを始めた。そして皐月の音出しを終えると、ステージに上がる。
「ミスするかもしれないですよ。高い音は外すかもしれないし。」
「やる前から弱気だな。菊子なんか原曲すら知らないぞ。」
「マジですか?有名な曲じゃないですか。」
 その言葉に昌樹が驚いた。何も知らないお嬢さんを連れてきて、歌わせようとしているのだろうか。蓮は何を考えているのだろう。
「よし……。やってみよう。テンポはわかるか?」
「少し早めでしたけど、少し落とした方が良いですね。」
 和音を鳴らして、テンポを確認する。皐月もそれに合わせて楽譜を見ていた。
「良いですよ。」
 三人がいっぺんに音を出す。その音に驚いた。
「あら……。」
 グラスに氷を入れて、百合は驚いたようにステージをみる。だが一番驚いていたのは、昌樹かもしれない。
「……。」
 そして声を出す。少しけだるいような女の声だ。若い女だと思っていたのに、歌うと別人になるようだった。
「同じ曲に聞こえないわね。あら……悪いわね。そんなことを言って。」
 百合の言葉も耳に入らないようだった。昌樹はその音を聴きながら、これを一番聴かせたい人がどうしてここにいないのだろうと思う。
「そんな感じだ。」
「そうですか?俺、ここやっぱり上がりきれなかったですね。」
「借り物の楽器に借り物のマウスピースじゃ仕方ないだろう?菊子はどうだ?」
「そうですね……歌ってこんな感じなんですか?」
「管楽器が主役の演奏だ。歌は主張しなくていい。」
「そうなんですね。でも……歌詞もとても素敵なのに、もったいないですね。」
「そうですか?当たり前の日常を切り取っただけって感じもしますけど。」
「それがいいんだろうな。」
 気が合っているような気がする。少なくともこの間の練習の時よりも、音楽になっていた。
「悪かったな。皐月。借り物の楽器で吹きにくかっただろう。」
「いいえ。別に良いですよ。俺も今度練習があるし、いいウォーミングアップになりました。」
「お前のライブはいつだ?」
「秋ですね。十月です。」
「都合つけて行ってみよう。」
 その言葉に菊子もきらきらした目で見ていた。その視線を感じて、皐月は笑いながら言った。
「別に反対しませんよ。フリーライブだし蓮さんと来てください。」
「行きます。」
 最初に会った頃、菊子がこんなに変わると思ってなかった。皐月は楽器をしまいながら、ステージ上の二人を見ていた。
「あれ?さっきレコードか何か流れてなかったですか?」
 外から来た客が、顔をのぞかせていた。
「いらっしゃいませ。さっき少しだけ合わせていたのよ。」
「なんかいい曲だなって思って。何て曲ですか?」
 若い女の二人組は、そういって中に入っていく。三人で合わせただけ。それなのに客が集まってくる。それだけ曲日からもあるし、三人に力もあったのだ。
 自分のバンドはどうだろう。おそらく足を止める人はいない。蓮のいっていたことはおおむね正しいのだ。昌樹はぎゅっと拳を握る。
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