夏から始まる

神崎

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可愛くない女

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 朝顔の間を通り過ぎて、厨房へ向かう。空になった皿を下げるためだ。相変わらず村上組の組長は息子たちを相手にきな臭い話ばかりしているようだが、そんなことは菊子に関係ない。棗も同じことを言うだろう。
「客の事なんか知ったこっちゃねぇよ。俺らがとやかく出来る事じゃねぇだろ。」
 確かにそうだ。菊子はそう思いながら、廊下を歩いていたときだった。
「あなた。」
 声をかけられて、振り返る。朝顔の間から女性が出てきたのだ。
「はい。」
「お手洗いはどこかしら。」
「ご案内いたします。」
「いいえ結構よ。それくらい自分で行けるわ。」
 女性はこういって断る人も多いし、菊子の手の上の皿を見て案内させないように気を使ったのかもしれない。
「では、玄関方面へ向かい、十字の分かれ道を右。その奥になります。」
「わかったわ。ありがとう。」
 女性はそういって行こうとして、また足を止めた。
「ついでに、中に入ってお酒の追加があれば聞いておいてくれる?」
「わかりました。すぐに参ります。」
 おそらく会社勤めでそれなりの地位にいるのかもしれないが、店員を手足のように扱う人はあまりいい人ではない。おそらく会社でも煙たがられているのかもしれないな。そう思いながら、菊子は厨房へ向かい盆を下げると、朝顔の間に向かった。
「失礼いたします。お酒の追加がございますでしょうか。」
 ドアを開けて、菊子は中にはいる。するとそこには水樹の姿があった。
「あ……。」
「菊子さん……。」
 驚いた。女性は着るもの身なりでかなり変わるものだが、こんなに和服を綺麗に着こなし、髪もちゃんとまとめ上げられ、薄いが化粧をしている菊子は、昨日会った高校生には見えなかった。
 そうか。こういう一面があるから蓮は惹かれているのだろう。
「やはり水樹さんでしたか。」
「やはり?」
「仲居が金髪の青い目の男性が居ると騒いでいましたから。」
「これくらい、どこでもいると思うんだけどな。」
 そんな美形がごろごろいては困るだろうな。菊子はそう思いながら、笑顔になる。
「お酒の追加はございますか。」
「そうだな。このお酒と違う日本酒があるかな。」
「はい。では次の料理に合うようなお酒を選定して持ってきます。」
「あれ?君も飲めるのか?」
「いいえ。未成年ですし。厨房にお酒に詳しいものがいますから、その方に聞いて参ります。」
 それもそうか。水樹はそう思いながら、少しため息を付いた。
「菊子さん。」
「はい。」
「こっちの町へ来ることはある?」
「いいえ。今度の土日は少し遠出をしますし、夏休みの間はないかもしれません。」
「そうか。ん?土日は遠出?」
「はい。蓮がイベントに連れて行ってくれるとか。とても楽しみです。」
 イベントが楽しいのか。それとも蓮と一緒に行くのが楽しみなのか、それはわからない。だがどちらにしてもなぜか心がもやっとする。どういうことだろう。
「イベントね。ライブ?」
「はい。スカとかジャズとかレゲエとか。そんなイベントらしいのです。あまり聞いたことのないジャンルなので、楽しみです。」
 あまり音楽を知らない女だ。気に入って刺激になればいいが、気に入らなければ苦痛になるだけだろう。それをわかって言っているのだろうか。
「……土日か。」
 土日はかき入れ時だ。そんなときに休むなど言えないだろう。それでなくてもライブだなんだと、休みが多いと言われているのだから。
「今度、連絡する。」
「え?」
「また歌いたい。俺が歌いたい曲をメッセージで送っておくから、練習しておいてくれないか。」
「はい。」
 正直、水樹と歌うのはとても楽しい。水樹がうまくリードしてくれるからだろうか。それとも菊子も水樹を思いやりながら歌っているからだろうか。
「あら。まだいらっしゃったの?」
 後ろで声がかかった。女性が戻ってきたらしい。
「すいません。知り合いでしたので、ちょっと話し込んでました。」
「あら。そう。」
「お酒をお持ちいたします。お料理と一緒でよろしいですか。」
「あぁ。」
 そういって水樹はお猪口に口を付けた。そして菊子は下がっていく。すると女性は水樹の前に座った。
「知り合いだったの?」
「えぇ。知り合いの娘です。大きくなったものだ。」
「え?あの子、十代かそこらなの?」
「十八だそうですよ。」
「あら。やだ。もっと年上の人かと思った。見る目無いわね。あたしも。」
 あらか様にほっとしている。未成年に手を出すほど女に不自由ではないと思っているからだろう。
 だがどうにも昨日から菊子が頭から離れない。歌ったからというだけじゃない。
 どんな風に笑うのだろう。どれくらい柔らかいのだろう。そしてどんな風に求めてくるのだろう。歌とは違う声であえぐ声が聞きたい。
 おそらく蓮だけじゃない。棗とも何かあったに違いないだろう。またが緩い女だと思っていたのに、今はその棗にすら嫉妬する。もちろん、蓮にも。
「どんなお酒が来るのでしょうね。」
 誤魔化すためにあえて関係のないお酒の話題を降った。
 こんな女性があえぐのは興味ない。だが菊子は違う。抱きたい。初めてそう思わせてくれた。

 その日の夜。菊子は風呂から上がると携帯電話をチェックした。そして宣言通り、梅子の携帯からであろう見覚えのないアドレスと番号を登録した。
 そして机においてあった読みかけの本を手にする。この間亡くなった作家の本だ。
 戦争で生き別れになった娘と母。母は大陸に残り、娘は本国へ帰る。そして娘は戦争から戻ってきた婚約者と結婚し、二人の子供を授かる。そしてそれから二十年の時がたち、国交が正常化した大陸へ母を探しに行く。
 その国でも下町あたり、夫は義母の後ろ姿をみる。だが義母は派手なチャイナドレスを着て、男を相手に体を売る仕事をしていたのだ。
 こんな姿を娘に見られたくないと、もう、死んだと伝えて欲しい。
 母の涙で本は締めくくられていた。
 菊子は本をおいて、その文字を反芻するように思い浮かべていた。それは自分の母のことだ。世界を駆けめぐっている両親に、手を叩いて誉められたこともなければ、その胸に抱かれたこともない。
 気が付いたときには、母はステージで歌っていた。父はそのそばで指揮を降ったりピアノを奏でたりしていたのだ。だから両親と言えばどこか遠くの人のイメージだった。または他人。
 両親はどちらかと言えば大将や女将さんが近い気がする。叩かれたこともあったし、怒鳴られたこともあった。それを理解できずに部屋に閉じこもったこともある。
 だがそれもしつけの一つで、両親はそれすらしてくれなかった。
 ただ歌を歌ってピアノを奏でるだけ。そして批判をするだけの両親だった。しかし今はその歌すら、武器になる。
 携帯電話が鳴った。それを手にして、メッセージを確認する。するとそこには水樹からのメッセージがあった。添えつけていたファイルを開くと、そこには男性と女性のデュエットの曲が携帯電話から流れ出した。
 甘いラブソングのようだ。それを水樹と歌うなんて、自分がこんなに汚いのにそんなことを出来るのかわからない。
 自然と涙があふれていた。
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