夏から始まる

神崎

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可愛くない女

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 スカバンドとしてはずっとやってきているバンドらしい。管楽器を吹いている人の中には、バンドの掛け持ちでジャズやレゲエ、または吹奏楽などをしている人もいるし、弦楽器やドラムはロックバンドをしている人もいる。割とジャンルはバラバラで蓮は当初やりやすいと思っていた。
 自分は出さずに穏やかにベースを弾ければいい。スカと言うよりも少しレゲエっぽい音楽だ。あの会場にはそう言う音楽が合うかもしれない。
 その中に菊子がいる。菊子はあまりこういう音楽を聴いたことがないはずだ。だから優しく心に染み渡るように伝わればいい。
 だがいざ合わせてみると、どこかぎくしゃくしているような気がする。その理由は何となくわかった。
「ここの音が欲しいわ。テナーで何とかならないかしら。」
「そしたらこの音が無くなるけどいいのか。」
「どうかしら。でもこっちの音の方が言いと思う。それからトランペットはそのソロの一番高いところは、外さないでよ。」
 管楽器をしているわけではないし、事情はよくわからない。だがベースの楽譜をもらったときにも感じたが、ベースにしては少し動きが難解なような気がする。少し練習をしてみたが、おそらくベースを知らない人間がアレンジしたような音楽だと思った。
 休憩に入り、蓮はトニックウォーターにライムを入れたモノを手にして、このバンドに誘ってくれた男に近づいた。それは南口にあるビルの一角にあるショットバーの店長だった。
 細い身なりで、黒いハットから見える癖毛の髪がどことなく一昔の役者のようだと思った。眼光は鋭く、だがその奥は優しい。今さっきまでぎゃんぎゃんとやかましいアルトサックスを持った女にも、何も言えないのだ。
「昌樹さん。」
「おぉ。悪かったな。いきなりベースを押しつけて。」
「構わないですよ。うちもあの祭りで屋台を出すって言ってたし。」
 そのときでも百合はきっとあのゴシックロリータの格好なのだろう。本格的に熱中症にならなければいいが。
「このバンドってさ俺も結構好きでよく聞いてるけど、確かキーボードが居なかったっけ。」
 その言葉に少し離れてオレンジジュースを飲んでいたアルトサックスの女が、こちらを振り向いた。
「うちのお嬢がキーボードが嫌いなんだと。」
「と言うか鍵盤だな。」
 ドラムの男が笑いながら言った。
「だからか。こんな変なアレンジになっているのは。」
 その言葉にさらに女が反応するように、蓮をにらみつける。だが肝心の蓮はそちらなど見ていない。
「あっと……。難しいか?」
 昌樹はそう蓮に聞く。しかし蓮も正直だ。
「難しいと言うよりも、音楽がいびつになってる。これじゃあ客に聴かせられたようなものじゃない。金を取るイベントではないのは知っているが、金を取るようなら金かえせだな。」
 その言葉にたまらず女が立ち上がって、蓮に詰め寄った。
「ちょっと。どういうこと?」
 思わず振り返ってそちらをみた。まるで鬼のような形相だと思う。だが蓮はそんなの関係ない。怖い思いは沢山してきた。それに比べればこんな女がピイピイ騒いでいるのなんか、全く動じない。
「悪いな。アレンジしたの牡丹なんだよ。」
 なるほど。この女が牡丹というのか。音楽は自分だけで作っているとでも思っているのだろう。
「アレンジの勉強をもう一度した方がいい。これなら、どっかの中学の吹奏楽の顧問の方がもっとましなアレンジにするだろうよ。」
 その言葉に昌樹は冷や冷やしながら、牡丹を見ていた。
 と、そのとき電話を手にした百合が戻ってきた。
「ただいまっと。あれ?どうしたの?殺伐とした空気ねぇ。」
 おどけたように百合がいうが、その空気を払拭させるまではいかない。牡丹は蓮に詰め寄ると、蓮を見上げた。なるほど。女にしては背が高い。菊子ほど身長はあるだろうか。だが体全体に脂肪がよく付いていて、おそらく色気のある女という感じだろう。
 しかし眼鏡や、緩やかなウェーブのはいった髪を一つにまとめている髪は色気を打ち消しているようにも見えた。
「あたし、音大出てるんだけど。」
「だったらその勉強は何の役にも立ってない。アレンジは専攻したのか。」
 ぐっと言葉に詰まる。確かに楽器ばかり吹いていて、その辺はおろそかになっていた。だが音の出る範囲くらいはわかる。無理はさせていないはずだ。
「たとえばこのトランペットの音だ。」
 手書きのバンドスコアを手にして、蓮が気になったところを指さす。
「トランペットのあんた。この音ってのは楽に出る音なのか?」
 その言葉にトランペットの女がおずおずと蓮の元へ行く。吹奏楽でもそんな音をそんなに頻繁に出すことはない。
「楽には出ないですね。出そうと思って気合いを入れれば出せるけど……。」
「だったら常に気合い入れなさいな。」
 牡丹はそう言って呆れたようにトランペットの女をみる。
「状況は野外だ。しかも結構離れているから、長時間の移動になる。当然体力と暑さの問題もあるだろう。気合いだけでは何ともならない。」
 蓮はそう言って側に置いてあった、オリジナルのバンドスコアを手にした。
「キーボードを入れろ。知り合いがいないのだったら、こっちで手配してもいい。」
「入れたくないわ。そんなの求めてる音じゃない。だいたい、あなたヘルプなんでしょ?口を出しすぎ。」
 百合はその様子をいつものことだと、のんきに構えていた。だが昌樹は気が気ではない。
「百合さん。」
 心配そうに百合に駆け寄った。
「いつものことよ。蓮。引き下がりなさいな。あんた、ヘルプだっていうんだったら、おとなしくバンドの意向に添いなさい。」
 その言葉に蓮は不機嫌そうにそのバンドスコアをテーブルに置いた。
「だいたい、生意気すぎるのよ。ベースだってミスすること沢山あるじゃない。文句言うんだったら、一人前に弾けてからいってよね。」
 その言葉にはさすがに蓮もかちんとしたように、牡丹に詰め寄った。
「あ?どこの音大を出たのか知らないが、お前はサックスしか知らないんだろう。だからこんな無茶なアレンジが出来る。やりたいなら一人でやれ。バンド形態の音楽はみんなで作るものだ。みんなの意見を聞かずにワンマンでやれば、いつかあらが出るだろうよ。」
 どの面下げていってんだろうか。百合は少し呆れながら蓮を見ていた。だが牡丹も負けていない。
 ばしっと鈍い音がした。牡丹が蓮の頬を平手打ちで殴ったのだ。
「くそ生意気!」
 そう言って牡丹は首からストラップをかけたまま、店の外に出て行った。その牡丹を追いかけて昌樹は声をかける。
「牡丹。」
「昌樹さん。やっぱりさ、違うベースにしてよ。あんな生意気で、管楽器のことを知らない人にとやかく言われたくないわ。」
 だが蓮の言ったことはおおむね正しい。それに蓮が最近穏やかになったと言っていたのに、こんなに言ったのは久々なのだ。
「音楽のことはあいつの方がプロだろう?アドバイスをしてくれただけだ。」
「昌樹さんもあいつの肩を持つってわけ?だったらあたし、今度のイベントでないから!」
 それは困る。さすがにこれからアルトサックスを探せないからだ。
「牡丹。今更アルトサックスを吹ける奴なんて探せないって。」
 ここまで相性が悪いことがあるだろうか。
 昌樹はため息を付いて、その周りをみる。すると和服を着た長身の女が、去っていく。涼やかで、何も悩みがなさそうだ。うらやましい。
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