夏から始まる

神崎

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可愛くない女

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 床の用意を終えた菊子は、少し時間があるのを見通して部屋を離れると厨房へ向かった。今日はハモ尽くしに違いない。ハモは料理も難しいのだ。その包丁さばきをみたいと思う。
 棗は今日、ハモを使った茶碗蒸しを作るらしい。あの卵で作った茶碗蒸しはきっと絶品だろう。あの出汁を味見くらいしたかったが、さすがにそれは拒否された。出汁は料理人の命だ。対象だってまだ皐月には基本的な取り方を教えているが、詳しいことは何もまだ語っていないらしい。
 厨房をのぞくとふわんといい匂いがした。出汁の匂いだ。卵を割っているところを見ると、だし巻きか、それとも茶碗蒸しか。そんなモノを作るのだろう。
「菊子。」
 大将が声をかける。その言葉に菊子はしゃきっと背筋を伸ばした。
「はい。」
「悪いが、スーパーへ行って大葉を買ってきてくれないか。」
「大葉ですか。」
「少し足りそうにない。」
 食材を言うのは珍しい。大葉一枚でもこだわりがあって、取れたてではないと風味が逃げると言っていたのに。
「ハモは味が薄いから、大葉が新鮮だと香りが立ちすぎて大葉の匂いしかしなくなるからだそうですよ。」
 不思議そうな菊子に気を使ってか、葵がそう教えてくれた。なるほど。そういうことなのだ。新鮮だから、生物だから、すべてが良いとは限らないのだ。
 西川の養鶏場に行ったとき、そう教えてくれた。卵だって肉だって、新しければそれで良いというわけではないのだと。
 菊子は裏口から出て行くと、日傘を差した。今回は熱中症の対策はばっちりだ。前に蓮にも梅子にも迷惑をかけてしまったし、二度と同じ失敗はしたくなかった。

 アーケードの中のスーパーではなく、繁華街を少し出たところにある二十四時間営業のスーパーは、酒類が多くある。繁華街のそばにあるからかもしれないが、その種類は吾川酒店とは趣が違う。
 トニックと割るだけで出来るジントニックや、濃縮還元のレモン汁。どちらにしても「rose」には縁がなさそうだ。ビールくらいなら出るかもしれないが、隣が酒屋なのにわざわざここまで買いに来たりはしないだろう。
「菊子。」
 ふと名前を呼ばれて前を見る。するとそこには買い物かごを持った梅子が居た。
「梅子。買い物?」
 珍しいこともあるモノだ。料理はしない。米を研ぐくらいだと言っていたのに、梅子の持っているかごの中にはピーマンやトマト、鶏肉のささみや牛乳も入っている。
「うん。」
「健康的ね。どうしたの?」
「ちょっとね。色々あって。」
 菊子もそんなに時間があるわけではない。お使いでここに来ているのだから。だから二人はレジへ行くと支払いを済ませて、外に出た。
 ショートパンツから惜しげもなく足を出している梅子と、和服の菊子。その対比はおかしいが、もうそれも言われ慣れた。
「……え。だったら先生のこと、誤解だったの?」
「母さんが早とちりしたみたい。でもさ……だからって、元サヤにすぐ戻れるわけじゃないじゃない。それに、あたし……。」
「何かしたの?」
 昨日のことだった。母に言われるがままにグラビアの撮影に望んだのだ。その雑誌は九月に発売される。さっき中本から写真付きのメッセージで、自分の姿を送られてきた。
 それを菊子に見せる。
「すごい。芸能人みたいね。」
「すごいでしょ?あたしみたいな素人でもこんなになるの。」
 ショートパンツにサンダル。胸を強調させたシャツ。そして笑顔の梅子。菊子ではこうはいかないだろう。
「このまま芸能人になるの?」
「うん。まぁ……それも良いかなって思うけどさ。そのためには体を作りたいの。胸だけじゃ、飽きられるって言われたし。だから走り込んで、ジム行って、食事も変える。」
「……良いことじゃない。」
「でもね。菊子。」
 梅子は少し笑って言う。
「あたし、撮られるのも楽しいって思ったけど、撮りたいって思った。」
「え?」
「編集作業とか、ヘアメイクとか、カメラとか、すごい面白いの。だから高校卒業したら、そっちの学校へ行きたいと思って。」
 梅子はやっと自分の道を見つけたのだ。そんな梅子が生き生きとしているのを、菊子は初めて見た。
「頑張ってね。」
「うん。菊子もね。どう?専門学校どこに行くか決めた?」
 その話に、菊子の表情が少し曇る。
「うん……でも休み明けに、もう一校見たいところがあるの。それから決める。」
 珍しく歯切れが悪い。それが少し心配だった。
「梅子。」
「それよりも、先生とは元サヤに戻れなかったんでしょう?だったら今は彼氏が居ないの?」
「うん。この間ね、携帯変えたの。あ、番号もアドレスも違うんだった。菊子。あとで送っておく。」
「わかった。」
 そういって梅子は西口の方へ帰って行った。
 梅子に言えるわけがない。蓮を裏切って、棗と体を重ねてしまったなど。携帯電話を変えて、番号を変えて、健康に気をつけて、自分の道を歩もうとしている梅子がまぶしい。
 そんな自分が可愛くない。なのに棗と体を合わせる度に、自分が淫らになる。蓮のことを一瞬でも忘れてしまうのだ。
 きっと蓮は今、「rose」にいる。少しだけ様子をのぞいていこうかと、店の前で少し立ち止まった。するとバン!と「rose」のドアが勢いよく開いた。
「ふざけないでよ。だから入れたくないって言ってんでしょ?」
 スキニージーンズの女性が勢いよく出てきた。それを追うように一人の中年の男が出てきた。
「牡丹。」
「昌樹さん。やっぱりさ、違うベースにしてよ。あんな生意気で、管楽器のこと知らない人にとやかく言われたくないわ。」
「音楽のことはあいつの方がプロだろ?アドバイスしてくれただけだ。」
「昌樹さんもあいつの肩持つってわけ?だったらあたし、今度のイベントでないから!」
「牡丹。今更アルトサックスなんか吹ける奴捜せないって。」
 何か知らないがとてつもなく修羅場だ。ちょっと様子を見るつもりだったが、菊子はそっとそこから足を北口に進めた。
 ベースが生意気。おそらく蓮のことなのだろう。音楽に厳しい人だ。そうやって「お前なんかいらない」と言われたことが何度あったことか。いつか百合がそう言っていた。
 蓮は正直な意見を言っているだけだと思う。正直、音楽の知識はそこまでないし、ロックとパンクの違いやジャズとスカの違いもいまいちまだ把握できない菊子にとって、音楽的な言い合いは理解が出来ないだろう。だが蓮は普通のことを言っているだけだと思う。
 おそらく両親が聞いても、蓮と同じことを言うと思った。それだけ蓮も知識を深めたのだ。
 自分もそうなれるのだろうか。自分の手にぐっと力が入る。
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