夏から始まる

神崎

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秘密

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 小さな頃、ある公団に美香子と知加子は住んでいた。両親共に教師であることから転勤が多く、決まった家を建てたのは父が退職してからだった。
 小学校の時に啓介の家の隣の家に住み、中学の時に再会した。それから高校では一緒の学校に入ったのだろう。程なく恋人同士になったと言っていた。
 だが美香子は潔癖なところがあり、高校生の時、怒りながら帰ってきたことがある。その理由は啓介がキスをしてきたとき、舌を入れてきたということだった。口内にはばい菌が沢山あり、もし虫歯でも持っていたら移ってしまうかもしれないと言っているのを見て、知加子は「こういう女にならないようにしよう」と心に決めたのを覚えている。
 だが啓介はそれだけ美香子のことを愛していたのかもしれない。美香子のいやがることをしなかったし、させたいようにさせた。だから美香子が我が儘になったのかもしれない。
 だから梅子がやりたいようにして、新しい世界が見えたのは仕方がない気がする。だからといって、梅子を捨ててまた違う女に走っているのはさすがに知加子でも虫ずが走る。何せ、経験豊富なのかもしれないが、梅子にとってはまだ幼い恋だったのだ。
「どんな女だって言ってた?」
「背が高くて……顔までははっきり見えなかったけれど、同じ公団に入っていったって。それから子供がいるって言っていたみたいです。」
「子供?他に子供を作っていたってことかしら。」
「だと思います。」
 その話に、武生は少し首を傾げた。おかしなことがいくつかあるからだ。
「……梅子。先生、学校辞めるらしいんだけど、そのあとのことは聞いている?」
「ううん。連絡してないし。」
「……先生、この町にまだいるって言ってる。確か……学習塾に行くっていってたかな。同じクラスの女の子がそこに行っているから、またよろしくお願いしますって言ってたのを聞いたことがあるよ。」
「学習塾?」
 知加子は驚いたように武生を見た。そして資料を見せてもらったのを思い出す。
 離婚調停の資料には、「双方の不貞があるが子供二人の親権は美香子が持つ。その養育費を月々決まった額を支払うこと」と書いてあった。
 学校を辞めると言っていた啓介に、何の収入があるのだろうと思っていたが、学習塾に勤めるのか。それで知加子は納得した。
「どこにあるの?」
「アーケードの中だよ。二階にある。」
「あぁ。少し大きな学習塾ね。良く自転車が停まっているわ。看板には小学校とかでも入れるって書いてあったわ。」
 その言葉に梅子も違和感を感じた。高校の教師をしていた啓介に、小学生を教えられるのだろうか。あのがちがちで、厳しい先生だと思っていた啓介が、小学生の目線に合わせられるとは思えない。
「啓介にそんなことができるのかしら。」
「努力次第でしょう。それこそ、今、目の下にクマを作って頑張ってるみたいだし。」
「クマ?」
「机には資料があったよ。小学生や中学生を教えるためのテキストみたいな。」
「……でもそれでも浮気してるのよね。」
 知加子はぎゅっと拳を握る。そんなに忙しいのに他の女に会う余裕があるなんて、どれだけだらしないのだろう。
 思い切って知加子は立ち上がる。その様子に少し離れてみていた蓮と圭吾も驚いたように見ていた。
「こんな、「かもしれない」とか、どうでも良いわ。今日台風だったし、家にいるでしょ?あたし聞いてくる。」
「知加子。」
 それを止めるように武生も立ち上がった。
「落ち着いて。」
「可能性なんかどうでもいい。真実を本人から聞けばはっきりするでしょ?」
「誤魔化されるに決まってる。」
 圭吾はそういって近づいた。
「その程度の男だったら、口先だけで誤魔化すことは出来るだろう。少なくとも俺ならそうする。自分が不利になるんだったらな。」
 その言葉に知加子は拳を握った。そのとき、そのベンチに近づいてくる男がいた。それは吾川酒点の若旦那だった。
「よう。お揃いで、何を話してんだ。」
 空のビールケースを台車に乗せて押している。どうやらこの天気でも時間をずらして開けたらしい。
「お、あんた、知加子さんだっけ?」
「え……えぇ。お久しぶりです。」
 まだ義理の妹になるのだ。あまり会うことはないが、挨拶くらいはしておいた方がいいだろう。そう思って知加子に話しかけた。だが若旦那は梅子には顔を合わせなかった。合わせ辛いのかもしれない。
 女子高生と関係を持って弟は教師の職を解かれた。その原因は梅子にあるのだから。
「あぁ。うちの弟今、超頑張ってるからさ、美香子さんに慰謝料の心配しなくていいって言っておいて。」
「え?」
「俺の大学の同期の所で、塾の講師するんだとよ。小学生とか中学生なんか教えたことねぇから今、アップアップしているわ。」
「大学の同期?」
 知加子は驚いてその言葉を繰り返した。
「そ。同じ公団に住んでたらしいし、遅くまで付き合ってくれてるって感謝してるわ。それでなくても弁護士事務所とか行かないといけないからなぁ。あいつ倒れなきゃ良いけど。」
 余計な奴がきた。圭吾は心の中で舌打ちをする。
 このまま啓介と梅子を別れさせて、梅子をそのまま売ってしまおうと思っていたのに、その当てが外れそうだ。
 こんなに流されやすく、バカな女だ。薬にも手をすぐに出るだろう。そうなればこちらのものだったのに。
「……マジで誤解じゃん。梅子。」
「……あたし……行ってくる。それから……謝りたいから。」
 その言葉に蓮が、声をかけた。
「梅子。俺が送る。こんな時間に外をうろうろしたらさらわれるぞ。」
「そうね。高校生が外に出れるぎりぎりの時間になってしまったわ。」
 知加子も携帯電話を見て、ため息をつく。本当なら行かせる義理はない。だが止められないのだろう。自分が武生を諦めきれないように、梅子も諦めきれないのだ。
「蓮。」
「ん?」
 圭吾はそういって梅子を送ろうとした蓮に声をかける。
「お前も気をつけろ。熱くなるその性格は、損をするだろう。それにその性格のせいでお前だけじゃなくて、菊子ちゃんにも影響を与えるかもしれないのだから。」
 その言葉に蓮は違和感を感じた。どうして菊子に影響があるのだろうと。
 三人と二人はそう言い残して別れる。梅子の顔色はとても悪い。誤解をずっとしていたという罪の意識があるのかもしれない。さっきまで武生に会って、写真を撮られていたとはしゃいでいた女とは別人のようだ。
「蓮さん。」
「何だ。」
「やっぱり沢山の男の人とセックスしている女って引く?」
 その言葉に少し蓮はため息をつく。
「この国には貞操観念という言葉がある。結婚をするまで男との関係を安易に持たないことだ。そこからするとお前はだいぶ外れているな。」
 蓮の言葉に梅子の表情が暗くなる。
「だがそれで人の温もりを感じるというのはわかる。俺だって菊子とであってそう思えた。」
「……啓介もそう思ってくれるのかな。」
「寂しくなって他の男に求めるのは、男の甲斐性がないとも言える。だがそれを口にしない女も悪い。男や女という前に人間だ。言葉が通じるのだから、相手が理解しようとするならば話せばわかってくれる。」
 まぁ。話の通じないヤツもいるが。蓮の心の中に棗の顔が浮かんだ。いくら言っても自分を遠そうとしている。そして菊子に手を出そうとしているのだ。
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