夏から始まる

神崎

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奪還

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 静かにベッドルームのドアを閉める。ほとんどベッドが占領しているような部屋で、置いているベッドもきっとキングサイズのものだ。そのベッドを背にして、知加子は少し戸惑ったような表情になる。
「武生……。あの……。」
 すると武生は耳元でささやく。
「静かにして。ここにいるの気づかれちゃうから。」
 うなづいてそのまま武生と目線を合わせる。そしてそのまま顔を近づけた。唇が触れると、体が熱くなる。そして鼓動が早くなった。
「武生……。」
「勇ましく乗り込んできたのに、俺もざまぁないな。」
「そんなこと無いよ。嬉しい。」
 体を寄せて、その体を抱きしめた。男の人の特有の堅さがある。そして温かさがある。信次ではこんなにときめかない。
「渡したいものがあるんだ。」
 そう言って武生はバッグから封筒を取り出した。それを知加子に手渡す。
「何?」
 封筒を開けると、そこには飛行機のチケットが入っていた。
「……武生。どうして……。」
「行きたいんだったら行った方が良いって思って。俺もいずれ行くよ。そのとき案内をして欲しいから。」
「……うん。でも……高くなかった?あたしの払える給料でもそんなには……。」
「一応蓄えはあるから。」
 それは武生が大学へ行ったとき、一人暮らしをするために貯めていたものだった。
「武生……。」
「結局……俺には体を売って貯めたお金しかないけど……。それでも受け取って欲しいんだ。」
 その中には武生を紹介した愛子のお金も入っているのだろう。そう考えるとその金を受け取るのがためらわれる。
「ねぇ。武生。一番は……あたしって思っていい?」
「一番っていうか、一人しかいないよ。俺は知加子がいればいいから。離れても、また繋がれる。この世界にいるんだから、また会えると思っている。」
「……武生。」
 すると知加子は涙目になる。そんな知加子の頬に指を這わせて、またその唇にキスをした。
 その様子を見て、紅子はドアを閉めた。
「ってことよ。信次。諦めなさいな。」
 ぽんぽんと信次の肩を軽く叩き、紅子はまたソファーに座った。
「だいたい往生際悪すぎるのよ。あんた。とっくの昔に振られてるのわかってんでしょ?」
「どうとでもなりますよ。」
 信次はそう言って向かいに座った。
「あのねぇ。女心わからなすぎ。うちの元旦那でももっと理解してくれたわよ。だいたい、小泉知加子がこの国で収まるわけ無いじゃない。元々青年海外協力隊か何かにいたわけでしょ?」
「えぇ。」
「そんな子が普通の奥様になれるわけ無いから。あんたの帰りを待って味噌汁作るような生活できるわけ無いわ。蓮。あんたもよ。」
 とんだとばっちりだ。蓮はそう思いながら、自分を指さした。
「俺?」
「早くそんな遊びをやめてこっちに来なさいな。何その格好。いい歳した男がする格好じゃないわ。どこのヤク中よ。」
「遊び?」
 今度は蓮がぶち切れそうだ。圭吾はそう思いながら、拳を握った。
「音楽なんて遊びでしょ?金持ちの贅沢な遊び。つまんないわ。」
「お姉さん。聞き捨てならないですよ。」
「真実じゃない。さっさとやめて信次の補佐をしないさいよ。じゃないと、信次のあとには影村しか着いてこないわ。」
 信次は優秀だが人を見下すことがあり、それを良しと思わない輩ばかりだった。対して、蓮は確かに自己中心的なところがあるがその分、人の目線に降りてくる。なので、蓮の方がわりとと実家の家政婦や執事に人気はあった。
「家は出ていますあんたらの世話にはなっていませんから。」
「へぇ……。遊びで稼いでるお金なんて大したこと無いわ。」
「一人でだったら十分です。」
「いつまでも一人でいるつもり?」
 それを言われると辛い。心に菊子がいるからだ。
「……あんな女に引っかかったのが悪いのよ。さっさと他の女でも捕まえて、養おうっていう気があるんなら、うちにくるのが一番いいと思わないの?」
「思わない。あっちも事情がある。」
 その言葉に紅子は驚いたように蓮を見上げた。
「このでくの坊に彼女がいるってわけ?おっかしいわぁ。どこのヤク中の女かしら。」
 さすがにその言葉はない。蓮は詰め寄ろうと紅子にくってかかろうとした。しかしベッドルームが開き、武生と知加子が出てくる。
 武生はさっきの会話を聞いていたのだろう。紅子に言った。
「俺の幼なじみです。」
「あんたの?何?蓮の彼女って高校生なわけ?ロリコンかよ。」
「どうとでも言え。どっちにしてもあんた等の世話にはなりませんから。」
 その言葉を無視して紅子は、武生に聞く。
「どんな女なの?まさか本当にヤク中じゃないんでしょ?」
 可笑しそうに口元を押さえながら、武生を見上げた。すると武生は言う。
「菊子です。」
「菊子?え……。」
 煙草をくわえたまま、紅子は蓮を見上げた。
「永澤菊子だ。」
「……。」
 煙草に火をつけて、紅子は呆れたようにいう。
「アレでしょ?音楽か何か、ほら歌手か何かの娘。」
「えぇ。」
「それにそそのかれたってわけだ。あー。そんな女、ろくでもないに決まってるわ。さっさと別れてしまいなさいな。つきあってそう期間は長くないんでしょ?」
 会ってもいないのにどうしてそう決めつけるのだろう。さすがに武生も少し怒りを覚えた。
「紅子さん。あの……。」
 今度は知加子が声を上げた。
「何?」
「その菊子さんって方は、あたしも会ったことがあるんです。歌は聴いてなかったんですけど。悪い子じゃないですよ。」
「そりゃね。あの「ながさわ」の孫でしょ?商売っ気があって当たり前。外面はいいに決まってる。問題は中身でしょ?」
 会ってもいないのに、何て事を言うんだろう。あまり人の話を聞かないのは、兄弟揃ってだろうか。
「信次も。嫁をもらうんだったら、もう少し考えなさい。蓮みたいに失敗しちゃ、家だって困るのよ。」
「あんただって失敗してるだろ?」
 ついに蓮が言ってしまった。自分のことはかまわない。だが菊子を侮辱されるのは我慢が出来なかったのだ。
「蓮……あんた。使われて、サラリーしてるからって偉そうにしてるんじゃないわよ。」
「育ててくれたのはあんたじゃない。」
「何?その口の効き方!外に出ておかしくなったんじゃないの?」
「あんたこそおかしいだろう?外国へ行って、バカになったんじゃないのか。」
「失礼な奴!蓮。あんた、出て行きなさい。二度と帰ってくんな!」
 そう言って紅子は立ち上がり、蓮を追い出すように玄関へ追いつめた。
「蓮さん。」
 そのあとを武生と知加子、そして圭吾も出ていく。しかし圭吾は玄関先で、紅子に言う。
「……あんた、菊子の名前を出したとたんに拒否反応したな。あの女、何かあるのか?」
「……ヤクザに言う必要ある?ヤクザだって情報でしょ?探ってみたら?」
 紅子はそう言って玄関のドアを閉めた。
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