夏から始まる

神崎

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奪還

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 夕暮れほどになり、菊子の携帯電話に着信があった。相手は女将さんだった。蓮と一緒に食事を用意しているから二人で帰ってこいということだ。
 電話を切ると、菊子は後ろにいる蓮をみる。蓮は不思議そうに菊子を見た。
「どうした。」
「蓮と一緒に帰ってこいと。食事を用意してあるからって。」
「そうか……。そんな時間か。」
 煙草の火を消して、蓮は脱ぎ捨てられていた下着を身につける。菊子もそれに習って下着を身につけた。
「蓮……。」
 シャツを手にした蓮の体に、菊子は体を寄せる。
「どうした?」
 少し笑いながら、蓮もその体を抱きしめる。
「……あなたしか見てないのよ。」
 棗の名前が出たからだろう。それを気にしていたのだ。そう思うと蓮の体を抱きしめる手に力が入った。
「どんな立場になっても、あなたしか見てないから。」
「あぁ。俺もお前だけだ。」
「棗さんとこんなことをしたかったわけじゃない。そのためにあの店に行ったんじゃないの。」
「わかってる。」
 しかし体は求めていた。それは否定できない。
「あなたが好きよ。」
「俺も好きだ。」
 菊子は蓮を見上げると、蓮もまた菊子の唇にキスをする。

 嵐が収まり、武生は圭吾のマンションから出てきた。もう夕暮れになっている。その後ろを圭吾が付いてきた。
「すっかり収まったな。」
 風は多少吹いているが、嵐は収まったようだ。
「……本当に付いてくるんですか?」
「家に帰すまでがあの女の要求だ。全く……若い男が好きだな。」
 苦笑いをする圭吾。
 義母である愛理が最初に目を付けたのは省吾。だがすぐに妻である日向子の目に留まり、それから日向子との折り合いは悪い。
 次が圭吾。だが圭吾はあまり家にいることはないし、女には不自由をしていない。あまり相手に出来ないのが現状だった。
 そこで目を付けたのが、武生だった。武生は大人しく義母の要求に応えているように見える。だがその心の中は黒く、どろどろしたもので包まれているに違いない。
 それは知加子に出会うことでさらに表面化した。
「……大人しく家に帰らせろか。帰ったらあの女の腐りそうなマ○コに突っ込まなければいけないなんて、お前も大変だな。」
「知加子はあの男に突っ込まれているんでしょうね。きっと……あいつは何もわかっていないのに。」
「ピルの問題か?それはあまり関係ないだろう。おそらく軟禁状態にして、時が経てば飽きるほどする。そうなれば、イヤでも妻にならないといけないだろうな。子供のためにも。」
 ぞっとする。あの体をあの男に好きなようにさせるのだ。殺意というモノを持ったことはない。だがこの感情はそれに近いと思う。
「でもお前、あの女は九月になればどこか違う国へ行きたいといっていたんだろう。どっちにしても離れることになるんじゃないのか。」
「それはあまり問題じゃないんです。」
「え?」
「俺も外国へ行ってみたいと思ったから。」
 働いてみてわかった。色とりどりの装飾品や、食器。雑貨。それらは一つ一つ丁寧に仕上げられている。こっちの国では二束三文かもしれないが、それでも馬馬車のように働いている女たちが丁寧に仕上げたものだ。
 その現状を見たいと思っていた。
「だから外国語大学か。」
「えぇ。少し離れているけれど、丁度いいと思っていたし。」
「……うちと関係を持ちたくないんだったらそっちの方が良いかもしれないな。さすがに外国には手を出せないし……だが、問題はある。」
「え?」
 圭吾は少し立ち止まると、ポケットから煙草を取り出した。そしてそれをくわえると、ジッポーで火をつけた。
「行ける国が少ないということだ。」
「行ける国が少ない?」
「つまりだ。俺らのような仕事をしている奴らは、外国へ行くのにも身元を調べられれば入国を許可できないことがある。ヤクザと縁を切ってまともな職業に就けばいいのかもしれないが、どんな職業でも身元は調べられるだろう。そのとき、少なくとも足かせにはなるということだ。」
 圭吾も本来なら、まともな仕事に就いていたはずだった。大学もランクが上の大学へ行ったし、優秀な成績を収めて卒業したのだから。
 だが結局、就職活動となると足かせになったのは家柄だった。だからまともな生活は送れないと諦めたのだ。
「どうにかならないんでしょうか。」
「ならない。法的にも俺らは行ける国も少ないからな。それだけ肩身が狭い仕事だ。」
 黒いシャツを着ているのは、入れ墨があるから。オールバックの髪を下ろして、普通の格好をしていても普通の人間とは扱われないのだ。
「……生まれた家でまともな生活が出来ないのは苦しいな。俺らが悪いわけではないのだが。」
 そのときやっと武生は素の圭吾の顔を見た気がする。いつも女を騙して売っていたり、脅したり、時に人を傷つけたりしている血の通っていない人間だと思っていたのに今は違う。
 本当はまともな生活をしたかったのだ。圭吾の歳であればきっと結婚して子供が出来て、普通の家庭を気づけていたはずだ。だがそれは出来ない。いつ死ぬか、いつ傷つけられるかわからないのだから。
 やがて繁華街にはいると、ふわんと焼き鳥の匂いがした。台風のあとだからといって、閉めない店が多いのだろう。
「帰りは酒でも飲んで帰るか。」
 そういえば蓮がいる店があるという。蓮という男に会ったことはないが、戸崎信次から蓮から美咲という女を引き離せと言われたときに、義母を使って薬漬けにしたことはある。
 結果美咲は塀の中だ。作戦は上手くいった。あの女がバカだったから上手くいったようなものだ。しかし蓮はそれから意固地になり、さらに戸崎の家には寄りつかないのだという。全くぼんぼんはこれだから詰めが甘い。
 それから蓮を見かけたことがある。
 あの祭りのと来菊子の隣でベースを弾いていたのが、蓮だという。背のやたら高い細身の男。どこかの国のヤク中のパンクロッカーによく似た男だと思った。
「……武生。」
「何ですか?」
「蓮という男を知っているか。」
「蓮?あぁ……菊子の恋人ですね。」
「菊子ちゃんの?」
 驚いて武生を見てしまった。
「詳しい話は知らないですが、菊子をバンドに誘ったのは蓮だっていっていたし、そのまま恋人になったって言っていましたよ。」
 聞いたときは嫉妬しそうになった。だが今は上手くいけばいいと思っている。知加子がそうさせてくれたのだ。
「丁度あんな感じの……。」
 そのとき居酒屋の角から出てきた二人組のカップルに、武生は目を留めた。背の高いカップルで、女も背が高くて細身だ。
「……菊子?」
 武生は少し小走りになって、その二人に声をかける。
「菊子。」
 振り返ると、それは蓮と菊子だった。
「武生。どこかへ行っていたの?」
 菊子は笑いながら、武生に話しかける。
「兄さんの所にね。」
 すると二人は後ろにいた圭吾に目を留める。武生によく似た男だった。普通の若い男に見えるが、武生の家ということはヤクザなのだろう。蓮の表情が少しこわばった。
「……あんたが蓮か。」
「そうだが。」
 圭吾は近づいて、蓮を見上げる。
「美咲の旦那だったらしいな。」
 その言葉に蓮は繋いでいた菊子の手をぎゅっと握る。何も心配いらないと言うように。
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