夏から始まる

神崎

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澱んだ青

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 連れてこられたのは、町中にあるあるビルの中だった。おそらく撮影スタジオということだろう。窓のない部屋は少しほこりっぽかったが、イヤな匂いはしなかった。
「中本さん。」
 ショートカットの女性が、中本に近づいてくる。
「撮影押してる?」
「押しまくってますよ。里桜菜ちゃんは次があるからって、必要な分だけ撮って帰っちゃいましたし。」
「まずいな。集合写真が撮れない。」
「まぁ、良いですよ。代わりの子、見つけてきたんでしょ?」
 女性は梅子を眼鏡の奥で値踏みするようにみる。その視線は厳しいが、口元は笑っていた。その様子に梅子は先手をとるように口火を切った。
「初めまして。高宮梅子です。」
「あ、私、中本さんの事務所で撮影監督してるの、林田美玲。名刺いる?」
「頂戴します。」
 見た目よりしっかりしている。言葉遣いも悪くないし、低姿勢だが強気だと思った。こうでないと生き残れないだろう。
 名刺を受け取ると、梅子はそれをみる。そして林田をまた見た。おそらく中本よりも年上に見えた。口元のしわが物語っている。
「早速だけど、着替えをしてメイクね。梅子ちゃんの衣装は話をしてあるから。ロッカーはすぐそこのドア。その廊下を右に行って三番目の部屋がメイク室。行ったら金色の髪のオカマみたいな男に聞いて。」
「はい。」
「あぁ。梅子ちゃん。」
 中本は行こうとする梅子に声をかける。
「君がずっとこの世界にいるのか、それとも単発的なバイト感覚で来てるのかわからないけれど、どっちにしても君はこの世界でも年齢的にも一番下だから。それだけは覚悟しておいてね。」
「……わかりました。では着替えてきます。」
 体には自信があった。だがそんな体はごろごろいる世界なのだ。体は武器にならない。だったら出来ることは限られている。
 梅子はそう思いながら、廊下へ出て行った。
「……いい子に思えますけどね。耐えれますか?」
「さぁね。あまりいい子でもやっていけない世界だ。」
「それにしてもいい体してましたね。どこで見つけたんですか?あんな原石。」
「なぁに。昔の知り合いの娘ってだけ。それもその知り合いもずっと連絡取ってなかったんだけどな。」
 わざと蝶子の名前を出さなかった。きっとこの世界で蝶子の名前は、梅子にとって大きすぎるから。

 手渡されたのは、ショートパンツと胸が見えそうな白いタンクトップ。そのほかにも黄色のビキニもあった。
 とりあえず洋服を着たショットを撮るらしく、そのタンクトップとショートパンツを梅子は身につけた。それでも胸が強調されそうで、それが気になったが、隣で着替えていた女の子も同じようなものだ。特に違和感はないのだろう。
「どうしたの?なんかじっと見て。」
 甘い声の女の子だった。背は梅子よりも低く、もっと幼く見える。だが手慣れているように見えた。
「あ……すいません。何でもないです。」
「あー。そうか。中本さんがいってた素人の子って、あなた?」
「そうです。」
「なーるほどね。中本さんも良いところ目を付けるわ。あ、あたし、樹里って言うの。」
「……高宮梅子です。」
「やだ。すごい名前ね。本名?」
「本名ですけど。」
「だったら芸名絶対つけられるよ。アキミさんから。」
「アキミさん?」
「メイクの人。さっき会ったでしょ?」
「あぁ。」
 金色の髪でなよっとした感じに見えた男だったが、その口調は厳しいようでアシスタントを何度も怒鳴りつけていた。
「それにしてもおっぱい大きいね。でも腰とかしまってるし、何かしてる?」
「運動って事ですか?」
「あと食事とか。あたしさ、もう二十五なんだけどそろそろ体の線が崩れてきたから結構必死よ。昨日の夜からもう水かお茶しか飲んでないし。」
 努力をしていないわけではない。毎朝、ランニングをしてストレッチをして、食事も気をつけていた。だがここ数日でそれも崩れている。
 一緒に走ってくれていた啓介がいないからだ。
「一応してますよ。」
「でもお腹の線は良いけど、割れちゃうとまた違うからね。」
 樹里はそういってロッカーを閉めた。そして鍵を閉める。
「鍵、閉めておいた方がいいよ。ここ結構物が無くなったりすることがあるから。」
「ありがとうございます。」
 梅子もそれに習って鍵を閉めて、またメイク室に向かっていく。
 メイク室は化粧品の匂いで充満していた。この匂いはあまり好きではない。母の匂いだからだ。
「新人の子ね。一度スッピンにして。ほら。鉄。ぼさっとしない。メイク落とし渡してあげるのよ。」
 アキミさんという女性にも男性にも見える人は、厳しくアシスタントの男に声をかける。そんな男が数人いるようだが、その中でもずっとアキミについている男が目に留まった。
 アキミの心がわかるように、次に何が必要かすぐに用意してくれるのだ。こう言うのも技術職なのだろう。
 梅子は化粧を落とされたあと、アキミが梅子に近づいてきた。
「綺麗な肌ね。煙草もお酒も縁がなさそうな肌。化粧乗りするわよ。」
 ベースメイクをされて、鏡を見ながら梅子にメイクをしていく。その指先はとても器用で徐々に梅子のどこかあか抜けない顔立ちがくっきりはっきりしてきた。
「新人ちゃん。名前はなんて言うの?」
「高宮梅子です。」
「まぁ。あか抜けないと思ったら、名前まであか抜けないのね。可哀想。」
 その言葉に、周りにいたヘアメイクさんもモデルも笑い出した。梅子は何でそんな名前にしたのか、少し母を恨んだ。
「そんな顔をしないの。あか抜けない名前だけど、いい名前だと思うわ。梅ってね、厳しい冬がもうすぐ終わりますよって一番最初に知らせてくれる可愛い花よ。冬が寒いほど、梅が咲いたときの喜びは人間だけが喜ぶわけじゃない。動物も、虫も、みんな春が来たことに喜びを覚えるの。いい名前じゃない。」
 マニキュアをした指で目にメイクを施していく。
「つけまつげは目尻だけでいいわ。マスカラつけるから。」
 よくしゃべるアキミとは対照的に、そばにいる男は無表情に淡々と必要な物をアキミに渡す。
「でも梅子じゃ、どっちにしても浮いちゃうわね。あたしが芸名付けてあげるわ。」
「え?」
「この場だけよ。そうね……香織ってどう?」
「……え?」
「梅の香り。花は見えなくても香りを残す。そんな名前。」
「良いと思います。」
 香織。菊子はその名前をもらい、カメラの前ではもう梅子はいないと思うことにした。
「あら。やっぱり綺麗な子。別人みたいねぇ。」
 メイクが終わり、他のモデルも梅子をみる。すると幼さは残るが、ぱっと目を引くようなそんな花のある女性になっていた。
「綺麗ね。」
「素人とは思えない。さすがアキミさん。」
 そうはいっているが、モデルは梅子を見てほとんどが奥歯をかんでいた。こんなに可愛くて、胸が大きいのだ。水着になれば更に目立つだろう。
 目立ってなんぼの世界だ。こんなぱっと出てきたような女に、苦労して手に入れた地位を奪われたくないと皆が思う。
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