夏から始まる

神崎

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澱んだ青

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 アパート他の部屋の人は騒ぎながらつまみ出されている武生を遠巻きに見ていた。連れていく男たちがさすがに堅気に見えないのだろう。武生が知加子の恋人だと他の部屋の人たちもわかっていたが、それを止めることは出来ない。痛い目に遭うのは自分なのだから。
 そして部屋の中には信次と知加子がいる。雨風はどんどん強くなり、部屋はみしみしと音を立てる。
「こんな部屋にいたとはな。あの店の収入でももう少しいい部屋に住めそうなものだが。」
「寝て、起きるだけであればこのくらいで十分です。」
「あとはセックスか。」
「……。」
「あの男に初めてを捧げたのか。」
「嫌な言い方ですね。あのときと同じ。だからあたし、あなたから逃げたんですけどね。」
 元上司と部下だ。知加子はずいぶん信次からアプローチを受けていたが、それを知加子は拒否して会社を辞めた。
 他の会社に勤めても信次のアプローチは止まらず、ついに貯めたお金を握りしめて海外へ逃げたのだ。隠れるように店を開いたのも、ヤクザと決して繋がらなかったのも、信次から逃げるためだった。
 武生がヤクザの息子だというので、少し信次のことが頭によぎったのは事実。だがそれ以上に自分の感情が止められなかった。
「あんな子供では満足できないだろう?」
「知りませんよ。あの子しか知らないんですから。」
 社会的な地位や諸々を考えても信次の方がいいに決まっている。だが知加子は武生が良い。それだけ好きなのだ。
 これだけ言ってもなびかない女は強情なだけだろう。だが体を開けばきっと忘れられる。忘れなかったのは過去にもう一人いた。自分の自室で、信次をゴミのような目で見た女。その女も弟に奪われた。
 今度こそ手に入れたい。
「知加子。」
 名前を呼んで腕を引いた。すると知加子はよろけるように信次の体に体を寄せた。そしてその体を抱きしめる。
「こうしたかった。知加子。何度夢の中で抱いたか。」
「夢じゃありませんよ。あたしはこんなに嫌気が指している。」
「すぐに良くなる。それに……忘れられる。」
 抵抗は出来ない。それがわかるから、知加子は大人しく信次に抱きしめられた。だがその信次の体に手が回ることはない。体を抱きしめたいのは、一人だけだから。
 少し体を離すと、その顎にふれた。そして上を向かされる。ゆっくりと唇を重ねて、その口内に舌を差し込んだ。
 武生とは違う感覚。とても慣れているのは武生と同じ。だがその香水の匂いも、自分とは違う煙草の匂いも全てに嫌気が指した。

 そのころ武生は、マンションの部屋に連れてこられた。それは圭吾の部屋だった。
「離せよ。もう行こうとは思わないから。」
 武生の二倍はありそうな男に、両腕を取られてここへきたのだ。その言葉に男は武生の腕を放す。そして部屋を出ていった。
 ソファに圭吾が座り、その前に武生が立つ。
「どうして知加子の家がわかったんですか。」
「ヤクザをなめんなよ。それくらいすぐにわかる。」
 圭吾はそう言って煙草を取り出した。それを一本くわえると、武生を見上げる。
「そんなにいい女か?」
 呆れたように圭吾が聞く。しかし武生は真面目だ。
「俺にとってはかけがえのない女ですよ。」
「そうは思えないな。胸は普通より確かに大きいようだが、女優に比べればその辺にごろごろいるタイプだ。」
「そんな女優と一緒にしないでください。」
 しかしその言葉に武生は一瞬嫌な想像をした。ヤクザの手を借りたのだ。そうだ。知加子もそうするのだろうか。
「武生。」
 煙を吐き出して、圭吾は少し笑う。
「そんな真似はしない。あの女はあの男が喉から手がでるほど欲しい女らしい。よく俺には理解できないが。」
「……。」
「俺にはあの女よりも菊子ちゃんの方がいい女に見えるが。」
「菊子?」
 意外な言葉だった。だが最近圭吾の口から菊子の名前がよくでる。それだけ意識しているのかもしれない。
 菊子にも幸せであって欲しいと願う。蓮とともにいるのだから、蓮と幸せになって欲しい。一瞬でも好きだったのだから。
「まぁいい。俺はあの女を戸崎信次に渡せば、それで仕事は終わった。お前はもっと別のヤツを見ればいいだろう?お前の幼なじみで床上手なヤツもいるのだろうし。」
 今度は梅子のことをいっている。しかしいくら床上手でも知加子を忘れられない。
「離れても忘れませんよ。」
「さぁ。どうだろうな。既成事実を作れば、いくらあの女でも文句は言わないだろう。」
「既成事実?」
「本来、男と女がセックスをするというのはそういうことだ。けっして遊びじゃない。まぁ……俺らが言うことではないが。」
 セックスを道具として、時に自分の体を使うこともある信次にとっては口先だけの言葉に過ぎない。
「中で出すって事ですか?」
「不能でない限り、中で出せば既成事実は出来るだろう。義理の母の子供だって本来誰の子供なんだかわからないのに。」
「……。」
 やはりそうだ。血縁がモノを言うが、調べればおそらく父親以外後が出てくるかもしれない。そうすれば義母は居づらくなるだろう。
「あの女もそうだろう。お前、生でしてたか?」
「いいや。」
「バカなヤツ。」
 ニヤリと笑う信次。だがその笑いは武生をバカにしているように見えた。だが武生は知っている。
「圭吾兄さん。あの知加子はずっと海外を飛び回っていた。先進国ではなく、どっちかというと発展途上国だ。」
「そのようだな。」
「国によってはレイプが横行しているような土地なのは知ってますか。」
「行ったことはないが、そんなことは聞いたことがある。」
「知加子はずっとそんな国にいたんです。」
 武生が何をいいたいのか、圭吾はわからなかった。知加子がそんな国を回っていたからと言って、何が変わるのだろう。
「何が言いたい?」
「中で出したからって子供が出来るとは限らないんですよ。知加子はそういうことをずっと気をつけていたから。」
 その言葉に圭吾は気がついたのだろう。不機嫌そうに煙草をもみ消した。
「もしかしたらあの女……。ピルでも飲んでいたというのか。」
 海外でレイプされて妊娠でもしたら、誰の子供かわからずに泣き寝入りするだろう。それを気にしていたのだ。
「俺がコンドームをつけてるのを見て、必要ないってずっと言っていたけど、俺は知加子を大事にしたかったから。」
 そしていつか、ピルもコンドームもいらない生活になればいい。誰にも責められないで、生活できればいい。知加子と一緒に世界を回ってもいい。見たことのない世界を見たい。
 いつからか武生はそう思っていた。この淀んだ空ではなく、澄み切った空の青を見たい。知加子と一緒に。
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