夏から始まる

神崎

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澱んだ青

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 野菜や魚を見ながら、買い物かごに入れていく。その目利きは確かに一流と言われている料理人の目線だと思った。
「卵も買っておくか。」
「六個入りでいいんじゃないんですか?」
「あいつだってゆで卵くらいは作れるだろう?卵は完全食だしな。」
 なんだかんだ言っても蓮のことを思っている。元々は同じバンドのメンバーだったのだから大事にしたいのは山々なのだが、どうしても美咲のことを思うと素直になれないのだろう。
「こうしてると新婚夫婦みたいだな。」
 その一言が余計だ。そう思いながら、菊子は納豆に手を伸ばす。
 買い物を終えると、傘を差して外にでた。雨足は先ほどよりも強くなっている。
「お店の方には、連絡しているのですか?」
「昨日の時点でな。キャンセルの電話は恵美がしてくれてる。」
 恵美はお店にとってなくてはならない存在なのだろう。だから棗が新規で立ち上げる店には連れて行きたくない。治が経営者になるのだろうが、治では行き届かないところが沢山あるし、それをカバーできるのは恵美しかいないと思っていたからだ。
 だが恵美は棗についていきたいと思っている。棗があの店を立ち上げたときからのつきあいでもあるし、何より個人的な感情があるからだ。
「お前が少し俺の店で働けば恵美と変わらないくらい動けるだろうし、それで厨房のことも出来れば最強だな。」
「……私は調理人になりたいのですけど。」
「表にでるのが嫌なのか?」
「……女将さんは私が女だから最初だけでも仲居の仕事をさせています。それから徐々に調理を覚えればいいと思っていたみたいですけど、それがメインじゃないので。」
「ちいせぇ小料理屋の女将にでもなるつもりか?」
「いいえ。「ながさわ」ではなくてもいいのですが、どこかの料理屋に勤められればと思っていました。」
「だったら俺のところに来いよ。」
 傘が邪魔だ。菊子の肩にも触れられない。菊子は水樹と棗が帰ると言えば、そのあと蓮とセックスをするのだろうか。自分ではなく蓮と。
 あの夜を忘れられない。求めて、求められたと勘違いをするような行為だった。ぐっと拳を握る。
「あなたは個人的な感情があるみたいなので。」
「あぁ。妻にしたいね。」
「嫌です。」
「だから来ないのか?」
「自分の体を使って、私を縛り付けているようにしか見えないから。」
 その言葉に、棗は足を止めた。菊子は振り返ると、棗はこちらをじっと見ている。
「何?」
「それは蓮も一緒だろう?あいつもお前の声だけしか聞いてない。その間に感情があるかどうかだけだ。」
「……感情があるのだったら、蓮の方について行きます。」
「俺にはないってことか?」
「……。」
「お前があんなに俺を求めていたのに?」
「否定はしませんが、蓮の方が求め合っている気がします。」
 すると棗は菊子の方へ近づき、手を握る。そして無理矢理に菊子を引っ張り、建物の隙間に連れ込んだ。
 棗は傘を閉じたが。菊子の傘は狭い路地に連れ込まれたときに、どこか骨が折れてしまったようでぐにゃりと曲がってしまう。
「あ……。」
 買った荷物を地面におくと、棗は菊子の体を引き寄せる。
「やめてください。」
 体を押しのけようとしたが、棗はそれを離さない。
「俺が求めてるんだよ。」
「私は求めてない。」
「そんなことはない。ほら。こんなに体が熱い。体は正直だ。なぁ、菊子。このままキスしていいか?」
「嫌。」
「あの夜を忘れられないんだよ。菊子。キスだけしたら大人しく帰ろう。」
「あなたのそれは信じられない。離して。は……。」
 すると棗はそのまま菊子の唇にキスをする。最初から舌を入れて、その口内を舐めた。強い酒の匂いがする。まだ酔っているのかもしれない。

 傘が折れてしまったので、二人で一つの傘に入り蓮のアパートに戻ってきた。するとアパートの前に一人の女性が立っている。
「あー。あんたたち、ここの部屋の人のお客?」
 しゃがれた声で聞く女性の格好も、ピンクのベビードールの姿で目のやりどころに困るようだった。
「どうしたんですか?」
 菊子が聞くと、女性は不機嫌そうに菊子に言った。
「うるさいのよ。いつも何か音楽流してるみたいだけど、今日はボリューム大きくない?下げてくれないかしら。」
「申し訳ないです。」
「ったく……台風来てるから、家にいるだけなのにストレスだわ。」
 いらいらしたように女はそこから三番目の部屋に入っていった。すぐ隣でもない部屋まで響くほど音楽を流しているのか。菊子は、部屋のドアを開ける。すると男の歌声と、ベースの音が聞こえた。
「……。」
 リズムを取るように手を叩きながら歌う水樹。そしてそれに併せてベースを弾く蓮。まるでCDか何かの音源に聞こえた。それくらい水樹の声にも完璧さがある。
「……おい。何やってんだよ。外までダダ漏れだぞ。」
 棗はやっと我を取り戻して、二人を止めた。すると水樹は笑いながら、蓮の方を見る。
「あんたのベース歌いやすいな。」
「合わせてるからな。」
「それが出来ないヤツの方が多いんだよ。ベースとドラムが音楽を引っ張っていってるって勘違いしてるからな。」
「実際そうだろう。本来、お前が俺に合わせた方がいい。だが今はお前の手拍子に俺が合わせていただけだ。」
「……そうか。」
 菊子は何もいわずにキッチンに向かい、買ってきた食材を冷蔵庫に入れていた。だがその心中は穏やかではない。
 水樹の声は低く、だが蓮にとても合っていた。合わせてやっているという言葉を使ったが、水樹も蓮に合わせているように思えた。それは対等な関係。自分では対等になれないかもしれないと思う。
「あー。菊子って言ったっけ?」
 冷蔵庫に納豆をいれかけて、菊子は手を止めた。
「はい。」
「あんたも歌えよ。昨日動画で見たけど、生でやっぱ聴いておきたいから。」
「私の歌ですか?」
「よせ。菊子が歌ったらアパート中からひんしゅくを買う。」
 蓮はそういって水樹を止めた。
「だったらカラオケ行こうぜ。」
「カラオケ?」
「そこだったら何の文句も言われないだろう?」
「開いてると思うのか?」
「チェーン店のカラオケ屋がそう簡単に閉店しないって。コンビニだってファミレスそうじゃん。蓮。あんたあまりそういうことを知らないな。若く見えるけど、結構歳いってんの?」
「俺は二十一だ。」
 その言葉に水樹は驚いたように蓮を見る。
「詐欺だろ?その面で、二十一?」
「顔に文句を言われてもな。」
 どうやら気も合っている。ますます自分の居場所がなくなったようなして寂しかった。
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