夏から始まる

神崎

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澱んだ青

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 次の日は雨が降っていた。菊子は朝の仕事をしようと、身支度をすませて部屋を出る。するといつも忙しそうに動き回っていた大将が、階下から新聞を取ってきた。
「おはよう。」
「おはようございます。あの……今日の準備は?」
「あぁ。聞いてなかったか。台風が来ていてね。あまり大きくない台風のようだが、海がしけっていて船が出せなかったみたいだ。だから今日は臨時休業だ。予約のお客様にもそう女将が昨日から連絡をしている。」
「あ……。」
 昨日は熱中症騒ぎで店のことを把握できていなかった。今日が休みなど、聞いてもなかったのだ。
「まぁ。今年の台風は遅い方だ。明日には船もでるし、いい魚が穫れればいいんだが。」
 リビングへやってくると、外にもでられない皐月や葵が女将の手伝いをして朝食の用意をしている。それを見て、菊子も声をかけた。
「おはようございます。」
「おはよう。あ、菊子さん。あなた、今日はお仕事はお休みということをいうのを忘れていたわ。ごめんなさいね。」
「先ほど聞きました。」
 すると女将の手に、何かタッパーで積められたモノがある。弁当のように見えた。
「それは?」
「雨足がまだ鈍いうちにいってきてらっしゃい。」
「どこへ?」
「蓮さんのところですよ。古いアパートに住んでいらっしゃるっていってたから、大変ならこちらに連れてきていらっしゃい。部屋は余っているわ。」
「……そうですけど。」
 すると葵が笑いながらいった。
「ここに連れてきたら落ち着きませんよ。」
「そうかしら。別に問題ないと思うんだけれど。」
 家族同然につき合っているつもりなのだろうが、一緒の家にいて何もしないわけがないだろうと葵は思っていたのだ。葵にはまだわからないその行為は、まだ影絵のようにしか理解が出来ない。
 食事を終えると、菊子は女将の用意してくれたタッパーを手にして玄関をでる。傘を差してもあまり意味がないくらい雨は降っている。これで風が吹けば手が着けられないかもしれない。
 黒い車が通り過ぎていく。その車は朝帰りをするカップルなのか、それとも武生の家の関係のモノなのかはわからない。
 いつもの居酒屋の角を曲がり、蓮のアパートの前に立つ。すると一階の端のドアから女が出てきた。傘を差して怒ったように出て行った。
「あーあ。出て行ったよ。」
「おめぇが悪いんだろ?ア○ルに突っ込もうとするからよ。」
「やっぱ。あれ。梅子ほどの女いないな。ア○ル突っ込んだだけで潮吹くくらい感じるからな。」
 そうか。この男たちが梅子を好きにしたのだ。そのまま攻め込んで殴ってやりたいが、そんなことをしたら返り討ちになるだろう。せめて蓮くらいの力があればいいのに。
 怒りを心に秘めて二階に上がり、一番は端のドアのチャイムを鳴らす。しかし静かだ。誰もいないようだ。いや、実際いないのだろうか。
 もう一度チャイムを鳴らすと、蓮が出てきた。眠そうな顔をしている。
「ごめんなさい。寝てたんですね。」
「寝てたけどな……。この雨の中来てくれたのか。」
 ふと蓮は外を見る。そのとき菊子は気がついた。酒臭い。
「飲んでたんですか?」
「あぁ……。」
 頭をかいて、蓮は後ろを見る。菊子もそれにならい部屋を見ると、そこには床に寝っ転がっている棗の姿があった。
「棗さん?」
 それに棗の隣には、もう一人いるようだ。頭をこちらに向けているので、金色の髪しか見えないが。
「どうして……。」
「色々あった。とりあえず中に入るか?」
「はい。」
 何があってもいい。菊子は心の中で「自分が恋人なのだから」と言い聞かせた。
 菊子が部屋の中に入ると、棗が目を開けて起きあがった。
「あれ?菊子?」
 だがその金髪の男は起きない。堅い畳の上でも何も動じなかった。
「何でここにいるの?」
「こっちの台詞ですよ。何でここにいるんですか?」
 テーブルの上はビールの缶や焼酎の瓶が転がっている。おそらくこれを飲んでいたのだろう。飲んでいたのはおそらく明け方まで。だから二人は数時間しか寝ていないはずだ。
「もう少し寝かせてくれよ。」
 棗はそう言ってあくびをした。まるで自分の家のようにくつろいでいる。
「蓮。どうして棗さんがいるの?」
 すると蓮もあくびを一つして、菊子を見る。
「ホテルが埋まっているから泊めてくれといきなりやってきたんだ。」
「台風なのすっかり忘れてたわ。終電で帰るべきだったって、水樹からも言われたし。タクシーもつかまんねぇし。」
 棗は笑いながら、頭をかく。おそらく棗も酒が抜けていないのだろう。
「台風は今からですよ。電車もまだ動いてますし、帰るなら今だと思いますが。」
「何?そんなに早く帰らせたいの?蓮とそんなにいちゃいちゃしたいわけ?」
「そんな言い方は嫌です。」
 ぎゃあぎゃあと言い合っている。確かに口調は菊子の方が敬語だが、棗が上手く菊子の目線にあわせて言い合っているような感じがする。蓮が相手ではそんな風にはいかない。それが少しうらやましいと思った。
「うるせぇな。」
 そのとき金髪の男が顔を菊子たちの方に向けた。その目に、菊子は驚いたように男を見る。金色の長髪もかなり目立つと思っていたが、その目の色は深い青だったのだ。
「……外国の方ですか?えっと……この国の言葉は……。」
「この国のモノだよ。女子高生。静かにしろよ。俺ら寝てねぇんだから。」
「……。」
 そう言ってまた男は三人を背にして眠りだした。
「すごい態度ですね。」
「まぁ。そう言うな。」
 すると菊子は蓮にタッパーを渡す。
「朝食の残りですけど。」
「ありがとう。女将さんによろしく言っておいてくれ。」
 その様子に棗は不機嫌そうにキッチンへ向かう。そして冷蔵庫を開いた。
「何だよ。お前、食材ほとんど入ってねぇじゃん。自炊しないのか?」
「しないことはない。時間がなくて出来ないだけだ。」
「しないヤツに限ってそういうことを言うよな。菊子。スーパー行こうぜ。」
「え?」
「俺らも腹減ってんだよ。まさかその小さいタッパーで三人の男が満たされるとでも思ってんのか?と、その前に飯だけ炊いとくか。米くらいはあるみたいだし。」
 勝手に冷蔵庫を開けて、米を取り出すとボウルに米を入れる。そしてそれを手際よくとぐと、炊飯器の釜に移し替えた。
「じゃあ行こうぜ。」
 そういって菊子を誘おうとした棗を、蓮が止める。
「お前と一緒に行かせるのか?」
 すると棗は鼻で笑ったように蓮に言う。
「蓮がついてくるとここの部屋、水樹一人になるだろう?それでいいのか?」
 確かに昨日、今日知ったばかりの人をこの部屋に一人っきりにするのは嫌だ。だが菊子を棗と一緒に行かせるのはもっと嫌だと思う。
 心配そうに見ていた蓮に、菊子は少し笑って言う。
「何もないわ。この雨だもの。そこまで節操がないわけじゃないと思うし。」
「……菊子。」
「スーパーの場所がわからないのでしょう?案内しますから。」
「悪いな。じゃあ、行ってくるわ。」
 棗はそういって菊子とともに部屋を出ていく。何もなければいいが。蓮はそう思いながら、ベッドに腰掛けて煙草に手を伸ばした。
「過保護だな。」
 そういって水樹は起きあがった。
「何だ。起きていたのか。」
「ぎゃあぎゃあ頭の上で騒がれてたら、寝れるもんも寝れないだろう。」
 水樹はそういってポケットの携帯電話を取り出した。お客にメッセージを送ったりするのも、仕事の一巻だ。
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