夏から始まる

神崎

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疑惑

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「西さんが言ってたベースってあんたのことか。」
 水樹はそう言ってトニックウォーターを飲んだ。レモンの風味がほんのりして、喉に気持ちいい。対して蓮は、水樹を「派手な男」という印象しかなかった。
「強引な人だな。俺にはその気がないのだが。」
「へぇ。ここでベース弾いたり、ベースとか教えるだけでいいってことだ。」
「別にそれで金に困ってるわけじゃない。安定したモノを求めるなら、そっちの方がいいと思っただけだ。」
「……人それぞれ事情もあるし、それがいいのだったらそれでいいわよねぇ。」
 百合はそう言って立ち上がる。そしてトレーを手にすると、さっきまでお客のいたテーブルを片づけ始めた。
「ここのバンドは、趣味?」
「趣味と宣伝。みんなそれぞれ仕事を持っていて、それがメインだ。俺も仕事で弾いたり、教えたりするだけでな。」
「なるほどね。」
 水樹もバンドがメインではなく、ホストで食べているのだ。その辺は理解が出来る。だがプロになった方が自分の為にもなるかもしれないと思って、西の誘いに乗ろうと思っていたのだ。
「菊子は知ってるのか?」
 棗が聞くと、蓮は少しため息をついた。
「西さんはあいつにも手を出そうとしていた。」
「え?」
「ちょうど練習してた動画を見せたら、食いついてきてな。今すぐにでもデビューさせたいといっている。」
「無理だろ?あんな荒削りじゃ。音大生とかの方がまだ歌えるだろうし。」
「たぶん菊子に言ったのは、本音じゃない。あいつ、おそらく……菊子をダシにして俺を呼び寄せようとしていた。そう思えるな。」
 だとしたら西が菊子の所へ行ったのかもしれない。それが容易な想像だ。そして菊子はそれを真に受けた。だから思い詰めていたのかもしれない。
 今すぐ弁解したい。だがまだ仕事は終わらないし、閉店時間までまだあるのだ。
「なぁ棗。」
 水樹はそう言って棗を見る。
「何?」
「その菊子って女だいぶ歌えるんだろ?西さんが言うくらいだ。俺も聴いてみたい。動画無いのか?」
「さぁ。俺は菊子の歌は祭りの時しか聴いてないし。百合。何か無いのか?」
 容易に見せてしまった練習風景で、こんな事態になってしまったのだ。出来るならあまり見せたくないと思っていた。だがそう言うわけにはもういかないだろう。
「あるわ。ちょっと待って。」
 トレーにコップを乗せた百合は、それをシンクに置くと自分の携帯電話を取り出した。
「おい。百合。」
「仕方ないわ。練習風景だけどね。」
 携帯電話の画像は少し荒い。だが、音ははっきりと聞こえる。割とまとまった演奏だった。パンクの音楽に聞こえるが、それぞれがそれなりに技術を持っている。水樹はそれを見て少しうらやましいと思った。
 ここまで出来れば自分がうるさく言って、嫌われることも、練習に来なかったりすることもないだろうに。
「……。」
 ボーカルは背の高い髪の長い女。顔までははっきりと見えないが、細身であることがわかる。そして女が歌い出した。
「……へぇ。結構歌えるな。」
 口では結構という言葉を使ったが、正直こんな女と歌えば食われてしまうかもしれない。確かに荒削りなところはある。音程もそこまで合っているわけではないし、高音が綺麗だがあまりビブラートを使っていないのは、出来ないからか使っていないからかわからない。
「この女いくつ?」
「十七か、十八だったな。高校生だ。」
 棗の言葉に水樹は改めて女を見る。そんなに若いとは思っても見なかったからだ。
「大人びてるように見える。」
「背が高いからな。」
「十八か。せめて五個くらいの差だったらいいのかもしれないが、さすがに七つはロリコンだな。」
「は?」
「もしツインで歌うってなれば、たぶんそういう風に見せるだろ?」
「しない。」
「は?」
「菊子は歌は趣味だとずっと言っている。なりたいのは歌い手ではなく、料理人だそうだ。」
「りょ……。」
 その言葉に棗を見る。
「マジかよ。棗。だからこの女を誘ってんのか?」
「こいつと仕事したらすげぇやりやすいぞ。」
「やりやすい相手ってのは確かに大事だ。だが、こんだけ歌えるのに、料理人なんて……。」
「本人が望んでいないなら、仕方ないだろう。そして俺も望んでいない。」
 さすがの水樹もそれには言葉を詰まらせた。
「だから他を当たってくれ。西さんにもそう言ってある。」
 だがその言葉には無理がある。百合はずっとそう思っていた。きっと蓮がしたいのは、お互いがお互いを高めあえる仲間なのだろう。その相手は玲二や浩治では役不足だ。菊子だって知識はまだないし、蓮の要求にはまだ応え切れていない。
 きっと水樹くらいだったら、蓮も言い合えるのだろうに。そう思っていた。

 携帯電話をベッドの脇に置いて、うつらうつらと眠っていた。すると急に電話が鳴った。着信があったようで目を開けた。するとそこには蓮の名前がある。
「もしもし。」
 布団の中で通話を押す。
「眠っていたか。」
「眠りが浅いと思っていたけれど、少し眠っていたみたい。」
「起こして悪かったな。でも……起こしてでも話がしたかった。」
「……うん。」
「菊子。俺はお前のためにプロになるのを諦めているんじゃない。そこは誤解をしないで欲しいと思っている。」
「……蓮。本当にならなくていいの?なりたかったんじゃないの?前に言っていたよね。プロになるチャンスがあったのに、なれなかったって。」
「そうだけどな。やはり……俺はわがままなんだよ。」
「え?」
「やりたい音楽をしたい。どうしてもプロになればあぁしてくれないと売れないとか、こんな感じの音楽を作らないと売れないとか、結局……あっちもこっちのやりたいことなど無視している。そんな音楽は作りたくないと思っていた。」
「わがままなのかしら。それって。」
「あっちも会社だ。売れないアーティストのCDは作りたくないだろう。そりゃ、「black cherry」のように上手くいけばいい。お互いを高めあいながら、ほどいい距離感を保てるのもいい。だがあっちもやりたい音楽をしているわけじゃない。この間わかった。」
「この間?」
「綾がこの間歌っていた音楽は、俺らがやっていた音楽とは全く違う。あんな大衆受けするような音を作っていなかったはずだ。綾だけじゃない。明人だってそうだ。」
「会社だから仕方ないのかもしれないわね。」
「俺には出来ない。今の仕事だから耐えれているが、そうやって音楽の何を突き詰めていくのか、わからなくなるだろう。だから断った。たぶん、好きなように作っていいなんていうレコード会社はないだろうからな。だから俺はプロにはならない。」
「蓮……。」
「だから……お前の為じゃない。足かせになってるなんて思わないでくれ。」
「……うん。わかった。」
「もうこの時間ならそっちにも行けないし、お前も来れないだろうな。でも抱きたい。」
「私も、抱きしめて欲しい。」
「……菊子。明日の昼、こっちに来れないか。」
「そう言おうと思ってた。」
 菊子の笑い声が聞こえる。嬉しいのだろう。本当は今すぐ忍び込んで抱きしめて、そしてキスをして、喜ばせたい。
「明日な。」
「えぇ。」
 蓮はそう言って電話を切った。そして一人のアパートのドアを開ける。
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