夏から始まる

神崎

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 目を瞑った。何を言われるかわからないから。怖かったから。ひどく罵られるのだろうか。殴られるのだろうか。別れを告げられるのだろうか。どちらにしても覚悟を決めてやったのだ。そして隠し事をしたくなかったから告白したのだ。
 だけど怖い。
 するとそのときふわっと唇に温かいモノが重なった。少ししっとりとした少し薄い蓮の唇が、菊子の唇をふさぐ。
「え?」
「菊子。塗り薬はどこにあるんだ。」
「あ……化粧台に。」
 部屋の片隅にある姿見の鏡の下に、小さなテーブルがある。そこに化粧水やファンデーションが置かれていた。その隅にある化粧筆が立てかけられているその中に、冬場に手が切れるのでおいてある塗り薬があるのだ。蓮は立ち上がり、それを手にすると再び菊子の隣に座り、その蓋を開けた。
 少しその軟膏を手にするとその歯形に塗りつけた。沁みるがよく効く軟膏だ。
「蓮……あの……。」
「消してしまえ。そんな傷。」
 その言葉に菊子は抑えていた涙を流した。こんなに優しい人を裏切ってしまったのだ。その罪悪感を押さえきれなかった。
「……ごめんなさい。」
「……いつだったか、棗がお前とあのスーパーで食材についてあれこれ話していたのを見たことがあった。俺ではそんな話は出来ないと思って自分自身にいらついたことがある。」
 棗が自分の新規で建てる店に菊子を引き抜こうとしたときのことを言っているのだ。アレを見られているとは思っていなかった。
「話しかけられなかった。棗はあぁあっても音楽の知識も深いし、俺の代わりにお前が惹かれるんじゃないかって思ったこともある。」
「……。」
「菊子。俺のことが好きか?」
「好きよ。だから……。」
「後悔はしても仕方ない。やってしまったことは仕方ないし、お前は敏感だし、棗くらい慣れてたら抵抗できないくらい反応するだろうと思うし。」
 軟膏の蓋を閉めて、それを元の場所に戻す。そして蓮は膝を床に着くと、菊子を見上げる。
「どっちが良かったなんて比べられないわ。蓮が好きだもの。」
「……俺も好きだ。だから悔しい。」
「蓮……。」
「ほかに付けられたところはないのか?こことか。」
 下着の中に、指を入れる。すると敏感になっているそこに触れた。
「……んっ……。」
「もっとよく見ないといけないな。」
 そういって蓮は片手で菊子の背中に手を伸ばす。

 仕事が終わり、蓮は帰りながら携帯電話を手にした。そして携帯電話のメモリーを呼び出す。そしてそこに通話をする。
「……俺だ。」
「わかってるよ。お前の電話番号なんか消してねぇから。」
 今一番いらつく声だった。だが話をしなければいけないだろう。やんわりと菊子に近づくなと言っていたが、そんなことでは棗は言うことを聞かないのだから。
「お前、何を考えてるんだ。」
「は?」
「あんな跡を付ければ、イヤでも俺が気が付くだろう。」
「……なんだよ。知っちまったのか。」
 ポケットに手を入れて煙草を取り出した。そして火を付ける。いらつくからだ。
「好きなんだよ。仕事しててやりやすいとかそんなんじゃない。あいつという人間が好きだ。」
「俺のモノだ。」
「あんたが好きなのはあいつの声だろう?」
「……違う。最初は歌うことなんか知らなかった。それより前からきっと好きだった。」
「歌ったらもっと好きになったって事だろう?そんなんあいつに失礼だ。あいつが好きだっていう感情を利用して、音楽に取り込んでるだけだ。美咲と一緒だな。」
 棗は自分の部屋の中で、酒の注がれたグラスをテーブルに置いた。飲まないと話せないと思ったから。
「これ以上手を出すな。二度はない。そうではないと……。」
「あいつから料理を取るのか?無理だろ?音楽は趣味だけど、料理はずっとしたいことだったっていってたぜ。」
「……別にお前に習わなくてもいい。お前はあまり女将さんなんかに好かれてないみたいだしな。」
「お前が好かれてるのは「戸崎」の名前があるからだろう?」
「それは違うな。俺はあの家に戻る気もないし、あの家の名前を利用することもない。」
「……。」
「わかったら手を出すな。菊子を迷わせるようなこともやめろ。菊子をお前の新しい店に引き入れたいならそうしろ。だがお前が従業員に手を出すという最低な経営者だがな。菊子が選ぶとは思えない。」
「イヤだね。」
 そういってグラスの酒を飲んだ。
「あいつは従業員じゃなくて嫁にする。だったら問題はない。」
「よっ……。」
 その言葉に蓮は絶句した。
「バカか。俺の恋人だと言っているだろう。」
「……そっちの方が現実的だろ?お前の嫁になるよりな。」
「……。」
「菊子の家は認めても、お前の家は認めないだろう?あの兄貴が居ちゃな。気に入れば手込めにするだろうし、気に入らなければ追い出すだろう?」
「……兄貴には話をしている。あっちの家は関係ない。」
「へぇ。あくまで「戸崎」とは関係ないって言い張るんだな。美咲にもそういってたのに、結局戸崎にやられたようなものじゃねぇか。菊子もそうしたいのか?」
「そんなことはさせない。」
「どうだか。お前は一度失敗しているから、俺は信用してない。」
「……。」
 何も言えなかった。美咲のことは思ったよりも棗に深い傷を与えているらしい。
「あ、それからな。今朝も一発したんだわ。でもゴム無かったから生でな。」
「お前!」
「中で出してねぇよ。最高な。あいつの体。高校生に思えねぇし、すごい敏感でこっちもそそられるわ。またやろうぜって言っておいて。」
「やらせない。」
「気合いだけは入ってるよな、お前。まぁいいや。じゃあ、またな。」
 勝手に電話を切られた。煙草をもみ消すと、蓮は自分の住むアパートに戻っていった。一階のあの部屋からはもう何の音もしない。
 梅子はもういないのだろう。
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