夏から始まる

神崎

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 結局全ての仕事が終わったのは十二時を過ぎた時間になっていた。高校生がアルバイトを出来る時間を大幅に超えている。だが一日だけだし、職場体験だと言えば何とか誤魔化しは効くだろう。
 着物を脱いで普段着に着替える。着物や襦袢、帯はまとめてクリーニングに出すらしく、まとめてある袋の中に入れた。そして菊子は帯留めや足袋を自分のバッグの中に入れると、バックヤードを離れた。そしてトイレに向かう。一度もトイレにいけなかったのだから、もう限界だ。そう思いながらトイレには入り用を立すと、明日香もバックヤードから出てきた。
「今日はお疲れさま。」
「お疲れさまでした。」
「すごいいい接客だね。あたしも学ぶモノがあったわ。」
 本当だろうか。店が始まる前の会話を効いているだけに、にわか信じがたい。
「どこの店って言ってたっけ。」
「棗さんなら知ってます。聞いておいてください。ではお疲れさまでした。」
 先にホテルへ行きたい。チェックインはしているが、不安になる。そして受付の前を通り過ぎようとしたときだった。
 棗と恵美が何か話している。それはとても和やかに談笑をしているという感じではとてもなくて、何か言い合いをしているようだった。
「あー。またかぁ。」
「また?」
「菊子ちゃんくらい動ける人ってまぁそうそういないけど、たまーにいるのよねぇ。恵美さんのプライドを傷つけるような人。」
「……。」
 思わず黙ってしまった。自分のせいでこんな状況になっているというのがいたたまれないのだ。
「やだ。菊子ちゃんのせいじゃないよ。うちの店がまだまだだってことだもん。これからこの店ってオーナーいなくなるし、どうなるかわからないもん。それに……その新しい店に、恵美さんが行こうとしてたからね。」
「どうしてですか?ここにいた方が自分の思い通りになると思うんですけど。」
「じゃないよ。菊子ちゃんって結構鈍いね。」
 自慢ではないが夏まで何も知らなかったのだ。人の気持ちにも鈍感なのは自覚できる。
「何ですか?」
「一緒にいたいのよ。夏の初めくらいまでつきあってたのに、急に別れるって一方的に言われたから未練もあるんだろうけど。」
 夏の初め。それは棗に出会ったときほどだ。それまで恵美と棗はつきあっていたのだろう。
「……まぁ……どうでも良いです。私、ホテルに帰りますので、失礼します。」
「あ、菊子ちゃん。」
 明日香の声がかかるが、そんなことはどうでもいい。菊子はすたすたと歩いて、二人の前に立つと頭を下げた。
「お先に失礼します。今日はありがとうございました。大変勉強になりました。」
 接客も、料理も、「ながさわ」では味わえないことだし、割と恵美のいっていることも当たっていたのだ。
 菊子の接客は逆にとらえればお節介に感じる人もいるだろう。その見極めは、まだ難しいところだ。まぁ、今日初めてなのにそんなにうまくはいかないだろう。
「菊子。ちょっと待って。」
「何ですか?」
 すると棗はまだ言い足りないような恵美を後目に、カウンターから封筒を一つ出す。
「これ。ホテル代くらいにはなるか?」
「あ、ありがたく頂戴いたします。」
 おそらく今日の数時間分の給料なのだろう。時給がどれくらいなのかわからないが、ホテル代の足しになればいい。
「それからお前まだ少し待ってろ。一人で表に出るな。」
「大丈夫です。あの……明日香さんもいらっしゃいますし。」
 すると後ろにいる明日香は笑いながら菊子に言った。
「あたし駄目だよー。もう迎えが来てるし。でもオーナーが言うのもわかるよ。ここ結構危ない地域だし、女の子が一人で歩けないんだから。」
 そんなところに良く店を建てたな。内心そう思いながら、棗をみた。
「言っとくけどな、お前ん所も結構危ないとこなんだぞ。ヤクザの自宅があるところとか、あまりないんだからな。」
「この辺も事務所が何件かありますよ。五十歩百歩ですって。」
 明日香はそういって笑いながら手を振った。だが表情を変えないのは恵美だった。
「恵美。その話また明日にしてくれ。」
「明日は来ないかもしれないじゃないですか。今日みたいに一日いたのってすごい久しぶりで、いっつもなんだかんだで居ないんだから。尻拭いするのあたしばっかで、困るんですよ。」
「これからそうなるだろ?」
 確かにこの店は年内までに厨房の治に譲られる。治は悪い職人ではない。だが何かしら合ったときに頭を下げるのは、いつも治ではなく恵美だったのだ。それに嫌気が指しているのは、ここで働くものであればみんなが知っている。
「あたしを連れていかないのって、その子を新規のスタッフにするつもりですか?ホールも厨房も出来たらそれは使いようがあるでしょうね。」
「……だとよ。菊子。どうする?」
「私は何度も言っているように、学校へ行ってからと思ってますけど。」
「は?」
 その言葉に恵美も明日香も驚いたように菊子をみた。
「そんだけ出来てるのに、何で学校なんか行くの?」
「調理師の免許を取りたいので。」
「そんなの働きながらでも出来るよ。みんなそうしてるしさ。」
「……そんなに器用じゃないんです。」
 少し笑うと耐えきれないように恵美は言った。
「それって嫌み?」
「え?」
「そうしか聞こえないわ。あれだけ出来て、しっかり受け答えも出来るのにまだ出来ないって言うの嫌みにしか聞こえない。」
「そんなつもり……。」
「えぇ。あなたにとってはそんなつもりはないんでしょうね。でも出来ないモノにとっては、あなたは嫌みな存在でしかないわ。出来るのに出来ない出来ないって卑下するのやめて。」
 恵美はそういって不機嫌そうに頭を抱えた。そこまで言うつもりはなかったのに、どうしても言いたくなってしまった自分に今度は腹が立つ。
「恵美。考え過ぎなくてもいい。治だっていざとなれば、自分のたたされてる立場がわかるだろうよ。」
 棗はぽんぽんと恵美の肩に手を置いて、そして菊子をみる。
「菊子。ホテルどこだ?」
「駅のそばです。」
「そこまで送ってやるよ。」
 つきあっていたと思っていたのに、どうして送るというのだろう。今度は不思議そうに明日香が、二人をみた。
「え?付き合ってるんじゃないんですか?」
 明日香がそういうと、菊子は全力で否定する。
「違います。あの……実は、うちの祖父と棗さんのお父様が知り合いだったようで、その関係でここに来たんです。」
「え?そうだったの?」
「そうそう。」
 そういって棗は笑って菊子をみる。
「学校で見たの本当に、偶然だったよな。それにさ、こいつ恋人が居るんだよ。」
「は?マジで?ねー、どんな人?」
 そんなことまで言わなくてもいいのに。じろりと棗を見たが、棗は涼しい顔をしているだけだった。
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