夏から始まる

神崎

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誘惑

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 二、三日前ほどから、武生の元に圭吾という省吾の弟で武生にとっては兄に当たる圭吾という男のマンションに行くことが増えた。
 圭吾は次男であるため坂本組の中では幹部止まりであるが、実行力はあるがあまり考えないで動く省吾とは違い、頭脳派の男と呼ばれていた。大学も国立の大学を首席で卒業したため、大学へ行きたい武生の勉強を見ていたのだ。
「武生。」
 数学の公式を使って解く問題に、圭吾はため息を付く。
「簡単な計算ミスがある。こんなミスする奴じゃないだろう?どうした。」
「……別に。そうでしたか。」
 ぼんやりしている。時間を割いて教えているのだから、ちょっとは身になって欲しいと圭吾は少しいらっとした。
「女にうつつを抜かすのは、大学からでも遅くないからな。」
 圭吾は省吾よりもスマートで、女を口説かなくても勝手に寄ってくるのだという。昔は可愛らしい顔立ちをしていたが、今でもそれは健在で独身を貫く意味がわからないと省吾や父親が口をそろえているのを聞いたことがある。
 圭吾は煙草に手を伸ばして、火をつける。
「圭吾兄さん。」
「何?」
「女がこの間までセックスさせてくれたのに、今はキスすら嫌だって思うのって何だと思いますか?」
「やっぱり女か。」
「……そうですよ。」
「誰?菊子ちゃん?」
「菊子じゃありません。」
 相手は知っている。だが本人の口から聞いていないのに、言えないと思ったのだ。
「そうだな。他に男が出来たのか……それか単純に飽きたかってところか。」
「……他に男……。」
 そういえば屋台にも来たし店にも来た男がいる。ランチを指導してくれた男。蔵本棗と言っていた。歳も少ししか離れていないし、どちらかというと友人同士にも見えるが、元々パーソナルスペースが狭い知加子だ。押されたらそのまま従ってしまうかもしれない。実施自分だってそうした。
「飽きるってことはあり得る。男は単純に入れ込めれば気持ちいいかもしれないけど、女はそうじゃないときもあるし。」
「そうなんですか?」
「すごい濡れてても、ただ異物が入っているだけって言われたこともある。ショックだったな。その声は演技だったのかって。」
 圭吾にもそんなことがあったのか。武生は少し驚きながら、圭吾を見ていた。
「……演技には見えなかったけどな。」
「俺らには女の気持ちはわからないよ。女じゃないんだし。」
 菊子があの男の隣にいたのもわからない。あんな軽薄そうな男の隣にどうしていたのか。騙されているのだろうか。
「……武生。菊子ちゃんのことだが。」
「珍しいですね。圭吾兄さんが菊子のことを聞くなんて。」
「たまたまこの昼間に会ってな。随分大人びたなって思ったんだ。」
「恋人がいるから。」
 やはりあの男が恋人だったのか。昼間の繁華街をうろうろ動けるような男だ。
「……どうかしましたか?」
「いいや。歌が上手だったなと思った。」
「バンドですか。あぁ。俺は聴けなかったんですけど、評判は良かったみたいですね。でも本人に言わせたら、別人みたいなメイクとか格好をしていたから自分じゃないみたいだったって言ってましたよ。」
「そうだな。菊子ちゃんはあのままが一番可愛いんじゃないのかな。」
 圭吾の様子が少しおかしい気がした。菊子のことなんか目にもかけていなかったのに、どうしていきなりそんなことを言い出したのだろう。

 その日の夜。菊子は仕事が終わったら連絡をしてくれと蓮に連絡をして、学校の課題を始めた。課題はほぼほぼ終わっているが、今日のうちに終わらせておくのも悪くないと思っていたのだ。
 一息ついてヘッドホンをしてその音に耳を傾ける。浩治が作った曲を、麗華が譜面に落として、玲二が参考音源としてパソコンで作ったのだ。人工的な女性の声も入っている。最近のパソコンは便利だと、菊子はそう思っていた。
 この曲を歌うのは秋の祭りの時。
 そのころには学校へ行くのか、それとも店にはいるのか、もう決まっているはずだ。店にはいるとしても棗の店はない。あんな空間で一日中いたら、絶対手を出される。と言うか明日こそ出されるかもしれない。
 いっそ生理にでもなってくれないだろうか。無理だな。この間来たし、たとえなっていてもあの男なら突っ込みそうだ。
 とそのとき電話が鳴った。蓮が電話をして来るには少し早い気がしたので、少し違和感を感じた。そしてその相手は、やはり棗。
「もしもし。」
 電話をとると、棗は笑いながら言った。
「まだ起きてたのか?」
「課題をしてました。」
「そっか。高校生だもんな。明日、こっちに来るんだろう?」
 そういえばそうだ。終電までに間に合うのだろうか。それだけが心配だ。
「はい。」
「十六時に駅。俺が迎えに行ってやるから。」
「あ、大丈夫です。場所はわかるので、十七時にお店に伺えばいいんですよね。」
「ばーか。そっちの繁華街と同じと思うなよ。絶対お前浚われるかな。」
「……そんなモノなんですか。」
「男をバカにするなよ。」
 そういって笑う。
「それから明日は予約が結構入ってる。遅くなったら終電も間に合わないかもしれない。そのときのためにホテルでも何でも予約しておけ。」
「……付いてこないですよね。」
「それは保証しないけどな。」
「意地でも終電までに帰りますから。」
「ははっ。そういうところ。俺、そういうところが好きなんだよ。」
 電話を切ると、菊子はインターネットのサイトを開いた。そこにはビジネスホテルの一覧が載ってある。別に寝られればいいと、適当なホテルで予約のボタンを押そうとしたときだった。
 今度は蓮からの着信があった。
「蓮。」
「どうした。いきなり連絡が欲しいなんて。」
「……明日ね……。」
 事情を話すと、蓮の声が少し不機嫌そうになる。
「そうか。棗の店か……。」
 心情は行かせたくない。だが菊子の目標のためには行かせないといけないだろう。
「店の状況によっては終電に間に合わないかもしれないと思って、どこかホテルに泊まるわ。」
「棗が付いてくるとか言い出しかねないな。」
「保証しないと言われた。」
 その言葉に蓮はせき込んだ。ますます行かせたくないと思う。
「明日か……。」
 何とかして行けないだろうか。無理だな。明日もレッスンはあるし、店も開いている。そんな事情で休むわけにもいかないのだ。
「菊子。もし何かあれば連絡をしろ。」
「わかった。」
「もし何があっても隠さないでくれ。棗には言っておくから。」
「お願いね。」
「菊子。」
 一息ついて、蓮は先ほどよりも声のトーンを落として言う。
「好きだからな。」
「えぇ。私も好きよ。」
 見る見る顔が赤くなる。それは蓮も一緒だった。
 電話を切り、蓮はまた店に戻ると、にやにやしている百合がそこにいた。
「急に休憩欲しいなんて言うんだから。」
「何だよ。」
「そんなにしょっちゅう言わなくても菊子ちゃんは逃げないわよ。」
「お前、聞いてたのか?悪趣味な奴だ。」
 すると飲みに来ていた玲二が呆れたように言う。
「昔からその優しさが半分でもあったらな。」
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