夏から始まる

神崎

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誘惑

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 確かに働きながら調理師の免許を取ることは可能だ。実際、皐月はそれで免許を取った。葵は通信制の高校へ行きながら働いているために、免許を取るまでにはもう少しかかりそうだがそう言う道もある。
 だが大将はあえてそう言う道を選ばせなかった。免許を持っていたほうが、いざ入店したときに力になるのは知識のあるモノだからだ。
 こんな形でスカウトが来るとは思ってなかった。しかも「ながさわ」とは違うテイストの店からのモノに、大将は思わず声を漏らした。
「うむ……どうしたものか。」
 腕を組んでちらりと菊子をみる。菊子も戸惑っているように見えた。
「菊子さん。あなたはどうしたいのか教えてくださる?」
 迷っている大将に、女将がそれを聞いた。そうだ重要なのは、菊子の気持ちだろう。
「店に入って実践から学ぶのが近道だとは思います。けれど、そんなに器用ではないと自分でも思うので、やはり学校へ行ってからどこかの店に入りたいと思います。」
 どこかの店というのは、おそらく自分の店ではない。そう思うと棗の拳に力が入る。
「と言うことらしい。蔵本さん。菊子にその意志はないようだ。」
 すると棗はバカにしたような口調で隣に座っている菊子に言った。
「何?お前、あと二年遊びたいのか?」
「遊ぶ為じゃありません。」
「そうか?バンドとかで遊びながら、学校へ行きたいってことだろう?」
「……。」
 バンドは遊びじゃない。そう言いたいが、実際遊びだ。お金をもらえるほどの歌や演奏技術ではないのだから。
「早く身につけたいなら若いうちからのほうがいい。とはいえ、うちも出来ない奴に給料をやるほど儲かる保証もないからな。お前にはホールのことをしながら、じっくり俺が料理のことを教えてやるよ。」
 その口調にぞわっとした。夏祭りのことを思い出したからだ。
「菊子。専門学校の願書はいつまでだ。」
「一期が十月です。」
「だったらそれまでに考えておけばいい。で……棗君。」
「はい。」
「菊子も選択権はある。今度、そちらの店に行かせて判断すればいいだろう。」
「……俺もうあまり関わってないんですけどね。まぁいいや。だったら……明日、うちの店に来るか?」
 ここで行かないとは言えないだろう。悔しいが、一枚上手だ。
「わかりました。」
 棗はニヤリとして、菊子をみる。
「よろしくな。あぁ。使えるようだったら時給くらい出すから。」
 何をされるかわからない。だったら用心に越したことはないだろう。菊子はそう思いながら、棗を見ていた。

「それにしても強引な方。」
 麦茶を入れたグラスを片づけながら、女将は苦々しい表情だった。
「悪い男ではなさそうだ。正直で、まっすぐなのは職人気質と言ったところだろう。」
 大して大将は棗に大して悪い印象はない。元々父親とは繋がりがあったのだ。しかもその父親には世話になっていたし、恩義ある人の息子なら、ぞんざいな扱いは出来ない。
「それに、菊子のためにもなるだろう。」
「菊子さんの?」
「蓮さんは、確かにいい男だ。貰ってくれるなら彼が一番いいだろう。だがその選択肢だけしかないというのは少しもったいない気がする。」
「嫌ですよ。あんな人が身内になるの。」
 女将はそれでも棗があまり気にくわないのだろう。

 そんなことを言われているとは思いも知らない、棗と菊子は外に出かけて東口を歩いていた。黒い看板や白い看板。モノトーンが多いとおりだ。
「ほら。この二階。」
 まだ店舗が入っているようで、どうやらワインバーがあるらしい。
「まだ店舗が入ってますよ。」
「十月に撤退して、駅前のほうに移転するんだと。だから十一月くらいに打ち合わせして、年明けに着工だな。」
「……人が集まると良いですね。」
「お前なぁ……来るつもりないのか?創作和食だぞ。型にはまった和食なんかよりも、お前のやり方で自由にできるんだから。」
「基本があって応用があります。まず基礎から知りたいです。」
「だったら今度の火曜日が楽しみだな。」
「は?」
 棗を見る。やはりバカにしたような目線に、菊子はむっとしてその場から離れようとした。
「なぁ。菊子。」
 振り向くと、棗は少し笑って彼女を見下ろした。
「店、何時に行けばいい?」
「十六時です。」
「あと三時間か。なぁ、ホテル行かねぇ?反対口にあるんだろう?ホテル街。」
「……。」
 あきれたように菊子はその場を離れようとっした。蓮から何も聞いていないのだろうか。それとも蓮が話をつけたというのは、効果がないのだろうか。
「嫌です。」
 そのとき向かいから黒塗りの車が数台、二人の前を通り過ぎようとしていた。
「あぁ。この辺ヤクザの家があるんだっていってたな。」
「……。」
 武生の家はこの近所だ。その武生も、春にはここを出るという。いよいよ武生はヤクザとは縁が遠くなるだろう。
 武生は恋人が出来たのだという。それはあの小さな店で雑貨とランチを提供している女性。菊子よりもだいぶ年上で、しっかりした女性だ。
 あぁいう人が好きなのだろう。だがきっと武生の家が黙っていない。省吾があぁいう人を認めるのだろうか。そしていつか客で来ていた組長も、きっと知加子を認めないだろう。
「……何だよ。ぼんやりして。」
「何でもありません。行きましょう。お店に戻りたいです。」
「何だよ。ホテルいかねぇの?」
「行きません。」
 そのとき最後の黒塗りの車が、菊子の横で停まった。そして窓が開く。
「あ……。」
 いつか武生の家で会ったことがある。この人は武生のもう一人の兄だった。細いサングラスと、オールバックの髪。細身の顔が印象的だった。
「菊子ちゃん?」
「はい。こんにちは。圭吾さん。」
「見違えたね。随分大人っぽくなったものだ。」
 笑うその顔が少し武生に似ていると思った。だが武生よりも冷たい感じがするのは、おそらく目の奥が笑っていないから。
「「ながさわ」で働いているのかな。」
「接客をしています。省吾さんやお父様は見かけることはありますよ。」
「そうか。俺はあまりそっちに行くことはないからね。もしいくことがあったらよろしく頼むよ。」
「お待ちしています。」
 上っ面の挨拶だと思った。それでも挨拶をしないといけない。ヤクザだろうと政治家だろうと、お客様なのだから失礼があってはいけない。女将からずっと言われていたことだった。
 圭吾は車から降りることなく、そのまま窓を閉めて少し笑った。そうか。遠目でわからなかったが、蓮の隣で歌っていたあのバンドのボーカルは、菊子なのか。確かに永澤英子と永澤剛の娘だ。音楽はたたき込まれているのだろう。だから人を注目させるくらいの歌唱力があるのだ。
 だが圭吾はそれよりも菊子の目が気になった。挑発的な目が客をとらえて、離さない。その目にやられた人がどれだけいるだろう。
 あの隣にいた男もその一人なのか。あいつが、菊子の恋人なのだろう。この辺では見ない顔だ。
「……。」
 運転手の隣に座っていた男に圭吾は声をかける。
「梶原。」
「はい。」
「坂本組の組長が来ると言っていたな。」
「監査みたいなものです。」
「組長は今日はいない。兄貴が渋っていたなら、俺が行くことにしよう。」
「わかりました。話をしておきます。」
 前にいたスキンヘッドの男はそういって、携帯電話を取り出した。
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