夏から始まる

神崎

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誘惑

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 ベースのメンテナンスを午前中にして、蓮はベースをそのまま抱えて家に一度戻ろうとしていた。アーケードの中はムシムシしていて、うだるような暑さに蓮は少し顔をしかめる。そのときスーパーのそばで、武生を見つけた。武生もまた制服姿のようだ。
「よう。」
 声をかけると、武生は携帯電話から視線をはずして蓮をみる。
「どうも。」
「学校があったのか?」
「えぇ。午前中だけ補習で。」
「菊子も?」
「菊子は進学組ですけど、専門だからあまり来てないですね。」
 学校には梅子の姿はあったが、梅子は補習が終わるとどこかへ行ってしまった。おそらく、担任の元へ行ったのだろう。
「そうだったのか。で、お前はこれからどこかへ行くのか?」
「バイトです。」
 ちらりとそのスーパーの向かいの奥の路地をみる。そこには鉄製の風見鶏の看板が風で揺れていた。
「「風見鶏」だったか。そう言えば祭りの時も、お前はあの店を手伝っていたんだったか。それからもバイトを?」
「九月にはいったん閉めるらしいので、それまでは続けようかと。」
「進学すると言っていた割には自由が利くものだ。」
「本格的なのは二学期に入ってからですよ。」
 知加子が外国へ行くのは一ヶ月間ほど。十月になればまた店は再開する。しかしそのとき武生は、おそらくこの店を手伝えるような余裕はない。頭は悪い方ではないが、行きたいと思っていた大学の英文科はレベルが高い。
「そうか。」
「菊子は街の専門学校ですね。蓮さんは転勤はないんですか?」
「基本、うちの会社はよっぽどのことがない限り転勤はない。まぁ……ここに来たのは、俺は望んでなんだけどな。」
「望んで?」
「まぁ……前の土地でいろいろあって、すべてリセットさせたかったんだ。」
「……出来ました?」
「……そうだな。ちょくちょく前の土地にいた奴とも会うし、嫌な奴とも会うな。世の中狭い。」
 嫌な人との再会もあった。だが、それ以上に菊子との出会いは大きなモノだった。
「蓮さん。一つ、言っておかないといけないことがあるんです。」
「何だ。」
「最初に俺と会ったときのこと覚えてますか。」
「あぁ。梅子と菊子といたな。」
「そのとき蓮さんは「村上」の名前に少し表情を変えたんです。」
「……。」
「祭りの時兄から俺は声をかけられたから、だいたいわかってると思うんですけど、俺の家……。」
「あぁ。だろうな。」
 予想はしていた。武生は村上組の組長、その三番目の息子だと言うことくらい。だからといって武生になんの非もない。その家に生まれたからといって、武生まで恨むのはお門違いなのだ。
 それは自分にも言える。戸崎グループの家に生まれたからといって、自分が偉いなど思ったこともない。
「恨まないんですか?」
「お前が美咲に何かしたのか?」
「……そんな人知りませんよ。」
「だったらそれでいい。何もしていないならお前を恨むこともないだろう?」
「ただ。誤魔化してました。ヤクザの家だってことは。」
「公に言えるような家じゃないからだろう。お前は家が嫌いでも、食わせて貰うのも、寝かせて貰うのも、それから学校へいけるのも家があるからだ。それだけは感謝した方がいい。」
 蓮はそれが出来なかった。だから未だに信次との間に溝があり、信次は菊子を連れ去ってまで蓮を戻そうとしていたのだ。
 少し話をしたが、武生はおそらく知加子に何があったかなど何も聞いていない。
 もしも知加子が襲われたのが村上組のモノだとしたら、武生の家が知加子を襲ったことになる。そのとき武生はどうするのだろう。家を出るのだろうか。それとも指示をしていた奴を突き止めて、殺してしまうだろうか。
 どちらにしても今必死に勉強をして、目標が見えてきている武生には足かせになることだ。

 そのころ、菊子は昼間の店に妙な客が来たと、ため息を心の中でついていた。
 リビングに通されて、麦茶を入れると男の前に置いた。
「悪いな。菊子。」
 それは棗だった。女将は怪訝そうな顔をしていたが、大将は機嫌がいいようだった。
「明さんの息子か。いや、若い頃はお父さんに世話になったんだ。」
「聞いてますよ。」
「お父さんは元気だろうか。」
「……二年前に亡くなりました。肝臓をやられていたようで。」
「まぁ……。」
 同情のように女将はいうが、正直気にくわない。どことなく人を下げずんでいるように見える蔵本は、蓮と同じというわけにはいかないようだ。
「俺が修行していた頃から、永澤さんの噂は良く聞いてました。何で急にこんな町外れに店を出したのかって。」
「不思議だろうか。ふふ。私も歳をとったということだ。町中で昼夜問わずに働くような、体力はもうないということだろう。それにわかっているモノは、嗅ぎつけてやって来るものだよ。」
「そんなものですか。」
 菊子もお茶を手にして、いすに座った。そしていぶかしげに棗をみる。棗に会うのは、あの祭りの日以来だろう。襲われかけて、玲二に助けて貰って以来だった。
「さて人……懐かしい話はこのくらいにして……今日は、お願いがあってきたんですよ。」
「ほう。金なら貸せないぞ。」
「金じゃないんですよ。確かに店舗を出すので、ちょっと物入りですけどね。」
「……。」
「この街の東口のほうに店舗を出します。」
 その言葉に菊子は驚いたように棗をみた。
「……あの辺はバーとか、クラブとか、結構にぎやかな場所ですよ。あなたのような料理人であれば、出すのはこの近所ではないのですか?」
 女将がそう言うと、棗は少し笑っていった。
「若者向けのダイニング居酒屋です。」
 大将と女将は顔を見合わせて、首を横に振った。
「和食専門ではなかったかな。」
「拘りはありませんよ。良いと思えば、どんな食材でも使います。」
「若者向けですね。私たちには理解が出来ないかもしれません。菊子さんはどう思いますか?」
 菊子は頭の中でダイニング居酒屋というモノを想像した。おしゃれな若者向けの店内はカクテルやナッツなどが似合うのだろうが、居酒屋だけに出すのは焼き鳥なのだろうか。
「想像がつきません。」
 居酒屋自体もそれほど行ったことはない。基本、食事はここですませるか、蓮の家で作る位なのだから。
「皐月さんなら想像がつくのかもしれませんけど、今はちょっと出かけているし。」
「で、君がその居酒屋を出すことが、私たちに何の関係があるのかな。」
 大将はそう聞くと、棗は少し笑って菊子をみる。
「開店は春頃です。それに併せて、菊子をうちで面倒を見たいんですがいかがでしょう。」
 思わず麦茶を吹きそうになった。グラスをおくと、菊子は棗を見上げる。棗は大真面目のように二人を見据えていた。だがその口元はわずかに笑っている。
 本気なのかジョークなのか未だにわからない。
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