夏から始まる

神崎

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 暑い、暑いと愚痴を言いながらも、英子は剛とともに祭りの会場のステージ前にいた。喉を冷やしたくないと、真夏でも温かい飲み物を飲んでいる英子は、呆れたようにそのステージを見ていた。
「何転けてんの。菊子は。」
「ヒールに慣れてないな。」
「全く……ダサいったらありゃしない。」
「そういうなよ。君も最初のコンクールの時、ドレスの裾を踏んで転けたというのを聞いたことがあるよ。」
「そんな昔の話し出さないで。」
 不機嫌そうに英子はそういうと、手に持っている紅茶を一口飲んだ。
「見た目はパンクだ。」
「えぇ。あっちの方で昔流行ったわね。」
「良く知ってるね。」
「そんなことばかりしている同期生がいたのよ。結局ものにならなかったけどね。」
 そしてドラムがスティックを鳴らす。ギターとベース、そしてキーボードの音が響いた。
「へぇ……結構聴けるじゃないか。それぞれが上手だな。」
「何言ってんの。あのキーボード、またとちったわよ。それに何?あのギター。最初から出しゃばりすぎでしょ?」
「厳しいな。」
 そして菊子の声が響く。その瞬間、周りがざわついた。
「何?あの声。」
「すごい。上手いねぇ。」
「あの転けた子、すごい。」
 周りの反応は上々だ。しかし英子も剛もその目は厳しい。
「ハイトーンは得意ね。でもあがりすぎ。」
「ビブラートをかけるなとは言ったが、あまりにもなさすぎても寂しい歌だ。」
 だが剛の組んでいる腕の先、指がリズムを刻んでいる。英子もつま先でリズムを取っていた。
「いい曲を選んでいるな。」
「演奏はまだまだね。」
「でも英子。ごらんよ。」
 一曲が終わると、先ほどよりも多くの人だかりが出来ていた。みんな足を止めたのだ。
「楽しそうじゃないか。」
「そうね。」
「蓮さんが言っている意味が何となくわかるよ。」
「何?」
「音楽を一人で作るのだったら、完璧を求めればいい。だが、バンドは一人ではない。みんなの足りないところを補いながら、作っていく音楽なんだとね。」
「……そんなものかしら。」
「私はピアニストだからね。基本はすべて自分でする。だがコンチェルトをしたとき、それが身に沁みてわかるよ。当初、私もコンチェルトをしたとき、指揮者にだいぶ怒られた。」
「あなたが?」
「そうだな。コンチェルトは、自分一人で演奏しているのではなく、オーケストラと指揮者と、どれだけ息が合っているかによる。それは互いを理解し合うことが重要なのだと。」
 菊子は笑っていた。歌うときあんなにおどおどしていたのに、今はこんなに笑うこともあるのだと英子は不思議な気持ちになっていた。
「……こんな音楽もあるのね。」
「あぁ。君も歌ってみればいい。」
「遠慮しておくわ。あの格好は出来ない。菊子みたいに若ければいいけど。」
「君もまだまだ綺麗だよ。」
 相変わらず息を吐くように甘い言葉を言う人だ。半分呆れている。

 四曲の演奏が終わり、五人はステージを降りる。しかしアンコールの声が鳴り止まない。あわてて司会者が「次のバンドがあるので」と声を張り上げる。その歓声はブーイングに変わった。
 次のバンドには気の毒なことをした。蓮はそう思いながら、菊子をみる。菊子はいつものような暗い表情ではない。戸惑っているというのが正直なところだろう。
「菊子。」
「……なんか……地面が揺れている感じがしました。すごい衝撃というか……。」
「パンクなんかって言う人も多かったかもしれないわね。でも黙らせたわ。あたしたちの勝ちね。」
 麗華はそういって、満足そうにキーボードを片づけた。
「あー、だからライブはやめられないよな。」
 浩治はそういって、ギターをしまった。そのとき、後ろから玲二に声をかける人がいる。
「どうしました?」
 どうやら高校生のようだ。おずおずと彼らに声をかける。
「どうやったらあんな上手くなるんですか。」
「レッスン希望?蓮だったら、受け付けてるよ。」
 蓮もベースをしまい、荷物からチラシを取り出す。
「一応レッスンはしている。興味があるならここに来ればいい。」
「はい。是非。」
 チラシを宝物のように抱えて、高校生たちは行ってしまう。だが玲二はそれを見て、どれくらい持つのかと不安になっていた。
 菊子はもうこの場にいない。すぐに着替えたいと、トイレに行ってしまったのだ。
「……一時はどうなるかと思った。」
 蓮はそういってため息をつく。その様子に玲二が声をかけた。
「何かあったのか?」
「棗がいてな。よけいなことを本番前に菊子に話してた。」
「え?蔵本棗?」
 その名前に麗華がひきつったようにそちらをみる。
「あの人生きてたの?」
「あぁ。菊子が通う予定の専門学校の講師をしているらしい。」
「マジか?だったらあまり関わらないってわけにもいかないか。」
 浩治はそういって心配そうに蓮をみる。
「簡単に菊子には説明したが……内心、思ったよりも菊子の集中力があって良かったと思ってる。」
「そうね。あまり堂々と言えるようなことじゃなかったしね。」
 すると玲二は、蓮に向かって言う。
「でも、あんたが原因で美咲がヤク中になったのは事実だ。それがどうしてかってのは教えてないんだろう?」
「……それは言う必要ない。」
「言わないといけない。じゃないと、菊子だって同じ目に遭う。菊子をヤク中にしたいのか?」
 怒ったように蓮は玲二の胸ぐらをつかんで彼に言う。
「そんな真似はさせない。」
「だったら、話付けろよ。お前の家にもさ。」
 手を振り払い入り口を見ると、菊子がいつもの格好でこちらを見ていた。
「何?」
「何でもないのよ。菊子ちゃん。」
 麗華はそういってキーボードを背中に担ぐと、菊子を促すように外に出て行った。
「菊子ちゃん。」
「はい?」
「ずっと続けましょうね。音楽楽しいでしょ?」
「初めて楽しいと思えました。私……歌っていいんですね。」
「歌うことは好きなの?」
「はい。」
 認められたことはなかった。だが自分が歌いたいと思うことと、聞きたいと思う人がいることで自分が求められている。そんな気がした。
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