夏から始まる

神崎

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 不安で押しつぶされそうだ。だがそんな不安に構っている暇はない。もう一時間もしないで、本番のステージが始まる。祖母も祖父も、そして両親もすべてを納得させないともう歌えないのだ。
 しかしすべてが不安で、押しつぶされそうだ。思わず煙草に火をつけた蓮の腕にしがみつく。
「蓮……。」
「……こんな本番前にあいつに会うと思ってなかった。何かの知り合いか?」
「……卒業して調理の専門学校に入ろうと思ってたんですけど……その講師で蔵本さんがいました。」
「腕はいいらしいな。確かに……俺よりは講師向きだ。」
 厳しいが的を得た言葉で、きっといい講師になっているのだろう。昔からそうだった。
「ずっと……美咲さんっていう人の名前を聞いてました。その名前の度に、蓮が怖かったんです。何かいわれたくない人なのだろうと思って、聞かないようにしていたんですけど……。」
 奥さんだった人だった。その事実に、菊子は不安になる。
「確かに……俺には、結婚していた時期がある。半年もなかったけどな。」
 蓮よりも十個以上年上だった美咲は、菊子のように細くて背が高く気が強かった。バンドで使うような楽器であれば何でも弾きこなせていたので、蓮がギターをしたいと言ったときも教えてくれたのは美咲だった。
「ギターをしていたんだがあまりうまくなれなくてな。それを教えてくれたのは美咲だった。師匠として尊敬も出来たし、なにより気が合ってな。歳の差とかあまり感じたことはなかった。」
 二人でいて、話があって、尊敬できるところがあれば恋心につながることも多い。実際、まだ十代だった蓮はすぐに美咲に恋をした。
「美咲は結婚したがっていた。子供が欲しかったからって言ってたか。でも俺はバンドが楽しかったし、美咲を食べさせるために今の仕事以外のこともしていた。時間が圧倒的になかったと思う。」
 煙草を消して、蓮は苦々しい表情になる。思い出したくなかったのかもしれない。
「蓮。無理に話さなくても……。」
「話したい。ずっと聞かせたかったことだ。」
「……。」
 正直聞きたくなかった。どんな人なのかわからない女性と結婚していて、きっと幸せだった時間があったこと。自分では幸せになれてないのだと言われているようだった。
「百合が、忠告してくれた。美咲との時間を増やした方がいいと。じゃないと美咲の心の透き間に、誰かがつけ込むかもしれないって。でも俺は信じていたから、そんな忠告は無視していた。」
 悪夢のような夏だった。
 深夜、蓮が二人が住むアパートに帰ってこようとしたとき、パトカーをよく見た。何か事件があったのかもしれないとのんきなことを思っていたのだが、そのパトカーが止まった先には自分が住んでいるアパートがある。
「警察官が連れていったのは美咲だった。」
 煙草を消して、蓮はため息をはいた。
 美咲は結婚してしばらくしても、蓮が構ってくれない寂しさから覚醒剤に溺れていた。その変化にも蓮は気づいていなかったのだ。
「……。」
「あとから聞いたが、捕まったのは二度目だった。だから実刑になった。」
「執行猶予もつかなかったんですか。」
「あぁ。五年塀の向こうにいる。まだ出て来れないはずだ。」
 バンドを組んでいた。その中に美咲もいたし、蔵本もいた。だがそれが美咲が捕まったことですべてが崩れた。全ては蓮の責任だった。
「……責められるのも無理はない。俺が構っていなかったんだから。」
「……蓮。」
「悪かったな。菊子。こんな話を本番前に。」
 すると菊子はその腕をつかむ手の力を強めた。
「話してもらって良かったです。」
「菊子……。」
「ずっと……どんな人なんだろう。美咲さんって人の名前がでる度に、蓮の表情が怖くなるから聞かない方がいいって自分に言い聞かせていたんです。」
「我慢させてたんだな。悪かった。今は、俺はお前しか見てないから。美咲の名前も、正直忘れかけてた。」
 口元だけで笑い、菊子は蓮を見上げる。
「蓮。」
「……さすがにここでは出来ないな。」
「そうですね。」
「でも今夜、覚悟しておけって言っただろう?」
「はい。」
「明日のことは考えないでいい。それから、昔のことも思い出さなくていい。今だけを見ろ。」
 そういって蓮は菊子の頭をぽんと撫でる。そして手を繋いだまま、二人は喫煙所を離れた。
 不安が残らない訳じゃない。だが、今は考えない。ステージに立つ自分が美咲という女性とかぶせているのかもしれないなんてことを、今は考えないでただ目の前の人の足を止める。
 蓮と一緒に。

 前のバンドが終わり、ステージ上のアンプやドラムはそのままだった。それを玲二がセッティングし直す。そして麗華も蓮も浩治も自分の楽器の音を確かめていた。
「何?パンクバンド?」
「今時パンクねぇ。」
「知らない曲もある。カバー?オリジナル?」
「知らない。」
 前のバンドのファンだろうか。パンフレットを見ながら、彼らの容姿を見ている。
 蓮がマイクのコードをつなげて、ステージ脇にいた菊子に視線を送る。すると菊子はステージにあがった。簡易的な階段は急で足を踏み外しそうになる。それでなくても高いヒールだ。踏み外さないように、慎重にしていたはずだった。だが、最後の段に足をかけたとき体勢を崩してしまう。
「あっ!」
 菊子はそのまま前につんのめたように、正面から派手に転けてしまった。
「いたぁ……。」
 それを見ていた客がどっと笑う。
「やだー。ダサい。」
「すごい。パンクみたいな格好してて、何で転けるかなぁ。」
「ヒール慣れてないんでしょ?」
 顔から火が出そうなくらい恥ずかしい。菊子はそう思いながら、立ち上がる。このまま逃げたいくらいだ。だが遠くに母の姿が見えた。隣には父がいる。そしてその近くに女将と大将の姿もあった。皐月も葵も、蔵本もこちらを見ている。
「……よし。」
 覚悟を決めた。そして菊子は、ステージの中央に立つ。
 怪我の功名なのか、さっき転けたもので足を止める人も多かった。見た目から入るからという、麗華の言葉が身にしみる。
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