夏から始まる

神崎

文字の大きさ
上 下
75 / 265

75

しおりを挟む
 百合と蓮が会場へ行き屋台の設営をしたあと、蓮だけが店に戻る。もう店の中には、他のメンバーがいるはずだ。少し合わせてから、楽器を持ってきたいと思っていたのだ。
 河川敷の会場に、臨時の駐車場が作られている。まだ祭りの前だからかもしれないが、あまり車はない。それでも一店舗につき一台の車の乗り込みは許されている。会場にほど近いところに停めていいのだ。
 蓮は軽トラックに乗り込むと、エンジンをかけた。そして車を走らせる。あまり離れていないが、楽器のことを考えると車で戻らないといけないだろう。
 車内はラジオが流れてる。天気予報は今日も明日も晴れだ。きっと暑くなる。暑さ対策はしているつもりだが、熱中症には気をつけないといけない。そう思っていたときだった。
 カップルが走ってくる。どうやらランニングをしているようだ。この暑いのに大変だな。
「……ん?」
 女に見覚えがある。確か梅子と言っていたか。菊子の幼なじみだ。隣は誰だろう。蓮よりも年上に見える。教師とか、トレーナーとか、そんな感じにも見えるが、それにしては仲が良さそうだ。梅子がこけそうになったら、支えてあげたりしている。
 軽トラックを走らせて、蓮は羨ましく思えた。
 カップルのように自然に振る舞える。菊子はそれに慣れていないからか、手を繋ぐのもはぐらかされることもあった。やはり夕べセックスをしておけば良かったと、ふとドラッグストアに目を留める。まだ開いていない。
「……あとで寄るか。」
 コンドームが切れていたのだ。
 そして店に着いて店に入ると、ベースなしで音を合わせていた。こう見るとあらが見える。菊子の音程があまり合っていないのもわかる。だがみんなも合っていない。野外のライブは、音があがりやすいので、菊子が合わせるのが大変そうに思えた。
「あ、蓮。」
 麗華が気がついて、音を止めた。ステージにあがると浩治に言う。
「浩治。冷静に頼むな。」
「あぁ。そうだな。」
 それだけを言うと、ベースのコードをつなげた。

 祭りが始まると、案外「風見鶏」の屋台は若い女性が集まって雑貨やアクセサリーに手を伸ばしていた。
「可愛いねぇ。このピアス。」
「でも荒れるものがあるんだよねぇ。どうしようかな。」
「樹脂のものもありますよ。こちらです。」
 接客をしていたのは武生。そしてアイスティーやアイスコーヒーを入れていたのは知加子だった。知加子にはそんなに人は集まっていないが、武生は見た目がいいためか憧れのまなざしで女性たちは見ている。これは計算外だった。
「あのぉ。一緒に写真を撮っていいですか?」
「どうぞ。でも汗塗れですよ。」
「それがいいんじゃない。」
 笑顔で写真に収まる。しかし知加子から見る武生のその笑顔も嘘くさく思えて仕方ない。
 だが夕べキスをしたあのまなざしが忘れられない。軽く触れただけなのに、夕べはよく眠れなかった。
「その指輪もいいですね。」
「えぇ。サイズが合えばいいんですけど。」
 そういって武生は一つ指輪を手にすると、その女性の右手の薬指に差し込んだ。
「綺麗ですね。」
 その言葉に顔が赤くなる。全く……ホストクラブじゃないんだから。知加子はそう思いながら、それでも売り上げがいいから仕方ないと自分に言い聞かせた。
「知加子。」
 汗を拭ったとき、今度は知加子が声をかけられた。そこには蔵本がいる。
「蔵本さん。どうしたんですか?人混み嫌いだって言ってたのに。」
「菊子のライブを見に来たんだよ。それにこんな昼間っからビール飲めるのってあんまりないじゃん。」
「いっつも飲んでるくせに。」
「お前のところアルコールだしてないの?」
「コーヒーと紅茶です。」
「食いもんは?」
「パウンドケーキ用意してますよ。」
「何だよ。つまみになんねぇな。でも一つもらうよ。」
「ありがとうございます。」
 パウンドケーキは買う人が少ない。知加子は痛むのを恐れてクーラーボックスに入れておいたのも良くないし、やはり違うものにしておけば良かったと思い始めていた。だがそんな矢先に蔵本が買ってくれるのは正直良かった。
 綺麗なラッピングのパウンドケーキをクーラーボックスから取り出して、お金をもらう。すると蔵本はその包みを雑に開けて一口口に入れる。
「美味いな。これ。甘みってバナナだけ?」
「少しだけ砂糖は入ってます。あとスパイス入ってますよ。」
「変わった味。こういうのあまり他の店では見ねぇな。それに冷えてるからさらに美味い。」
 美味い、美味いと連呼するので、雑貨を手に取っていた女性たちがそちらをみる。そしてパウンドケーキの値段をみた。
「あのぉ。それってまだあります?」
「ありますよ。いくつ用意いたしますか?」
「後アイスティーもください。」
「あ。あたしアイスコーヒーで。」
 変わった風味のパウンドケーキと、香りの高いアイスティーとアイスコーヒーは、それから徐々に売れていく。
 蔵本は少し笑いながら、ステージの方をみる。ここからではステージが死角になって音しか聞こえない。だが音は聞こえる。まだどこかの高校の吹奏楽部が演奏しているようだ。
「……。」
 蔵本は音楽が苦手だった。出来れば聴きたくない。
「知加子さん。」
 そのとき一人の男が知加子の屋台に近づいてきた。
「あら。本当に来てくれたんですか?」
「えぇ。約束しましたし。」
 若い男だ。年頃はおそらく知加子と同じくらいの歳だろうか。
「この後美香子のところに?」
「えぇ。外に出られないフラストレーションが溜まってるみたいなので。」
「……。」
 啓介はそういって雑貨を手に取る。子供が喜ぶようなものはないようだ。だが一つのピアスを手にする。
「美香子ってピアスホールあいてましたっけ?」
「やだ。啓介さんったら、自分の奥さんのことくらい把握してくださいよ。」
「ん……そうなんだけどな……んん?」
 いつもと格好が違って驚いた。その屋台で女たちにきゃあきゃあと言われていたのは、受け持っているクラスの人だったからだ。
「村上。何をしてるんだ。」
「バイトです。」
「そっか。許可くださいって言ってたっけ。ここだと思ってなかったな。」
「店長の……何ですか?先生は。」
「あぁ。うちの奥さんの妹だ。」
 その言葉に武生は驚いたように啓介をみた。あぁ。こんな人なのだ。
 忘れたことはない。この人は、梅子と一緒にホテルに入っていった。自分の奥さんが大きなお腹を抱えて苦しいときに、梅子とセックスを楽しんでいたのだ。そんな男。
「イヤリングにしておきます。」
「そうね。あいてるかどうか微妙だったら、そっちがいいかも。念のために樹脂にしたおいた方がいいですよ。」
「そうします。」
 お金を払い、綺麗な袋に包まれてイヤリングを渡された。
「これから姉のところに?」
「えぇ。夜は見回りに出ないといけないので。」
「そうですよね。じゃあ、よろしくお願いします。」
 そのころ、その知加子の実家ではちょっとした騒ぎが起きていた。それを知らずに、啓介はのんきに祭りを見ながら「食べるものもいるかな」と考えを巡らせていた。すべては梅子を隠すため。
しおりを挟む

処理中です...