夏から始まる

神崎

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 いつものように顔を洗い、洋服を着る。そしてリビングへ行くと、女将が驚いたような表情で菊子をみる。
「あら。夕べ遅かったから、泊まって帰ると思ってたのに。」
「ちょっと疲れてしまって……。」
 菊子の表情が浮かない。それでも女将の手伝いをいつものようにする。詳しくは言わない。だがきっと蓮との間に何かあったのだ。

「は?」
 屋台の準備をしていた百合は、呆れたように蓮を見ていた。蓮もやはり不機嫌そうに、プラスチックのコップを用意している。
「……だってさ、家に来るって言うなら当然だろう?あいつ音楽しか聴かないからな。あれはどうだとか、この間ラジオで聴いたあの音楽が気になってるとか。」
「まるであなたじゃない。」
 ソフトドリンクは用意しないが、簡単なカクテルも作るのでコーラやオレンジジュースも用意する。
「結局三時くらいに帰ったか。ったく……そんなことなら、まっすぐ帰らせれば良かった。」
 蓮はそう言って舌打ちをした。その様子に百合は呆れたように言う。
「そもそも、あなたが家に誘ったのって次のイベントの曲を決めたいからでしょ?」
「そんなの口実に決まってるだろう?なのに、レコードをかけてくれだの、この曲は譜面に起こせるのかだの……。」
「そういうことをあなたも美咲にしてたわ。」
 氷の沢山入ったクーラーボックスにオレンジジュースをいれる百合を、憎々しそうに蓮はみる。
「百合は子供を欲しがってたのに、あなたが音楽にしか興味を持たないから、最終的に逃げた。あたしにはそう見えるわ。」
「……。」
「音楽を知ったのは美咲がきっかけ。だったら菊子ちゃんに音楽を知ったきっかけを作ったのは、あなたじゃないの?どうして許せないの?」
「……気持ちを言ったし、体を重ねるのは当たり前だろう。何度だって欲しくなる。」
「だったらその関係ってそんなに持たないわよ。」
「何だと?」
 手を止めた。そして百合をみる。
「苦痛になるに決まってるじゃない。性欲なんて、人それぞれであなたよりも菊子ちゃんは経験が浅いから、まだそんなに求めないのよ。それより音楽がいい。あたしにはそう見える。」
 料理だか音楽だがかが一番で、自分は二番目か三番目か。順位などわからないが、菊子にとってその程度の存在だったのかもしれない。
「こんにちは。」
 入り口で声が聞こえて、あわてて蓮はそちらをみる。そこには菊子の姿があった。気まずそうな顔をしている。
「どうしたの?集合時間には少し時間があるみたいだけど。」
「ちょっと練習したいと思って。それから……声の出具合をみたいし。」
「真面目ねぇ。どうぞ。」
 ステージにあがるが、蓮とは目を合わせない。喧嘩をしているようだというのは本当のようだった。
 マイクを使っていないのに良く響く声だ。高い声も、低い声もまんべんなくでるのは、母親譲りだろうか。それとも母親に仕込まれたのだろうか。
「……どう?」
「悪くない。」
 蓮もその声を聞いていたのだろうか、だがステージの方をみない。
「だけどみんなと合わせたときどうなるかしら。バンドは一人で作るものじゃないもの。」
「……。」
「ステージまで仲直りしてよね。うちの店のイメージもあるんだから。」
「わかってる。」
「わかってないわ。そんな下らない理由で、バンドがバラバラになるのは良くないのよ。だからバンドの中の女に手を出さない方がいいのに。」
「……。」
「それを覚悟でつきあったんじゃないの?」
「百合。お前、あいつの肩を持つのか?男だったら気持ちはわかるだろう?」
「あたし、そんなに若くないのよねぇ。あなたみたいに猿でもないし。」
「百合。」
「蓮。あたし、漁業市場へ行くわ。やっぱりポリバケツに氷入れてくるから。」
「あぁ……。」
 二人っきりにさせたかった。バンドのためにも、二人のためにも。

 ビールの入った箱を用意して、内心蓮は百合が早く帰ってこないかと思っていた。または誰か来ないかと。二人っきりになっているのが辛い。
 その空気がわかっているのだろうか、菊子は片隅にあるコンポから音楽を流す。今日する曲だった。
「……。」
 今日する曲はパンクやロックで、音程やリズムはうるさく言わない。のりでいける曲だと思う。だがそんなことでは両親は納得しないだろう。
 ずっと音楽をしていくとしたら、ある程度の周りの理解は必要だ。そして両親がずっと言っている、外国へ行くこと。きっと納得しなければ、菊子を連れていくつもりなのかもしれない。蓮とだけではない。みんなと離れたくなかった。
 だから今日のステージは、いろんな人を納得させないといけない。だから今日、声を枯らすわけにはいかなかった。
「菊子。」
 たまらずに蓮から声をかけた。そしてステージにあがる。
「今日のライブはそんなに音程とか気にしないでいい。」
 その言葉に菊子は蓮を見上げた。
「え?」
「うちのメンバーも完璧じゃない。浩治はステージにあがると頭に血が上ってよけいなアドリブを入れることもあるし、麗華は逆に緊張しすぎて手がもつれることもある。玲二は練習の時からリズムが安定しない。」
 蓮は自分のベースに触れて、ため息をつく。
「俺もミスはすることはある。一曲につき一回はな。」
「蓮も?」
「でも結局は聴いている人が楽しめればいい。俺らはそれを提供するだけだ。それに……一人で作ってるんじゃない。」
「……。」
「何のためのバンドなのか考えろ。コピーバンドじゃないんだ。」
 コンポを目の前に立っていると、蓮はその体を後ろから抱きしめる。煙草の匂いと香水の匂いがした。大好きな匂いだ。
「蓮……。キスして欲しいんです。」
 顔を見ないままいった。蓮はその言葉に抱きしめる腕の力を強めた。
「イヤじゃないのか?」
「いやな訳ないです。あの……。」
「昨日あれだけ拒否しておいて、今更したいのか?時間もないのに。」
「……こんなことを言って良いのかわからないんですけど。」
「ん?」
「抱かれると凄く気持ちよくて……変に声が出るんです。この間、声が枯れてしまって……。今日本番だから、そんな真似は出来ないって思ったから……。」
 急に体を離されて、正面を向かされる。目を合わせるとじりじりと近づいた。
「……。」
 少し上を向き、目を閉じた。そのときだった。
「あー。暑いなぁ。ビール足りるかわか……。」
 入り口から、ビールの箱を持った若旦那が入ってきた。しかしステージの上の二人を見て動きが止まる。
「悪かったなぁ。」
「おい。京介。」
「ビール置いておくから、じゃあ、伝票な。」
 そういって脱兎のように出て行った。そしてそれと入れ替わりに百合が戻ってきた。
「あー凄い並んでんのよ。氷買うだけで凄い待っちゃったわ。蓮。あと積み込んでくれる?」
「わかった。」
 すっと菊子からは離れると、耳元でささやく。
「ライブ終わったら覚悟しておけよ。」
 そして機嫌が良さそうに、ステージを降りた。あとは顔を赤くした菊子が残っているだけだった。
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