夏から始まる

神崎

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 駆け込むようにして梅子のアパートの部屋に戻ってきた。ドアを閉めたとたん、梅子の手を握っていた手が離れる。
「……今日も仕事なんだけどな。」
 男をよく知っている。けれどこんなに柔道のようなことに精通しているのは知らなかった。
「ありがとう。啓介。」
 顔を見ないでお礼を言った。すると啓介は少し頭をかいた。
「身から出た錆だ。高宮。気をつけた方がいい。」
 すぐに離れるように、啓介はその家を出て行こうとした。
「待って。まだ探しているみたいだから。」
「……。」
 妙なことに巻き込まれた。そんな顔をしている。だが事情が事情なのだ。
「啓介……。」
「その名前で呼ぶなっていっただろう?」
「……けど、啓介もさっき梅子って呼んでたよ。」
 その言葉に啓介は言葉を詰まらせる。とっさに出た言葉だった。
 啓介は昔から柔道をしていたが、今の学校には柔道を専門にした体育教師がいることで、啓介は柔道部の顧問はしていない。だが週に一度、道場に通い、毎日のランニングや自主トレは欠かすことはない。その成果がこんな形で発揮されるとは思ってなかった。
「とっさに出たんだ。お前だと思ってな。」
「あたしだから助けたの?」
「誰でも助けるだろう。」
「でもヤクザかもしれなかったわ。」
「ヤクザじゃないってのはわかった。あんなちゃちな車に乗っている訳ないし……。それに……。」
「……それに?」
 やっぱり梅子だったから助けたのだ。しかしそれを認めるわけにはいかない。妻のためにも、子供のためにも。
「やっぱり、あたしだったから助けたの?」
「……そうかもしれないな。大事な生徒だし。」
 その言葉に彼女はうつむいたまま笑顔を浮かべた。
「そうだよね。」
 もう元には戻れないのだ。抱き合って、キスして、何度も打ち込まれたあの日はもう来ないのだ。
「……ありがとう。先生。」
 納得して別れたはずだった。だがこんな形で二人で会いたくなかった。大勢のうちの一人の生徒として、クラスでバカを言って笑いあって、将来のことについて話し合ってくれて、そんな関係に戻れると思っていた。
 だがお互いに甘かったかもしれない。こんな状況ではなくても二人っきりになる時は遅かれ早かれあった可能性がある。そのとき自制が利けばいい。
 そう思っていたのが甘かったのだ。先生と呼ばれ、高宮と呼ばれ、胸が苦しい。それが当たり前なのに辛いのだ。
 手を伸ばしてしまえ。そうすれば楽になるのだから。だが幼い子供が、その子供を育てている妻が頭をよぎる。自分を信じてくれているのだ。だから誰もいない団地の一室に啓介がいることを許してくれたのに。ここで手を出したらすべてが壊れる。
 手を伸ばせばすぐに掴めるだろう。柔らかい二の腕の感触もすべて覚えているのだから。
「……イ……インスタントだけど、コーヒーなら淹れれる。先生。お礼させて。」
 梅子はそういって啓介の前から離れた。そしてキッチンへ向かう。やかんに水を入れて、火をつける。
「ちょっと時間かかるね。うちポットないし。」
 棚からインスタントコーヒーの瓶を取り出し、そしてカップをシンクに置いた。するとふわっと柔らかなものが背中に伝わってきた。その感触を忘れたことはない。
「啓介……。」
「梅子……駄目だな。駄目な親だ。こんなに他の女に心を奪われると思わなかった。」
 手が震えている。ずっと我慢していたのだ。
 梅子はガスを止めると、その手を少し引き離し啓介の方を向く。そして彼の背中に手を回した。その手も震えている。
「もっと抱きしめて。もっとぎゅっとして。」
「あぁ……。」
 啓介はうなづくとその手に力を込め、少し離すと梅子の頬に手を当てる。そしてむさぼるようにキスをした。

 ランチの時間が終わり、知加子は少しため息をつく。いつものよ臼と変わらない武生はとてもありがたいが、自分の方が何だか意識しているようだと思った。
 指をくわえられただけ。ただそれだけのことなのに調子が狂う。
「店長。」
 皿を洗っていると、急に声をかけられて知加子は思わず皿を落としそうになった。
「わぁっ!あぶなー。」
 武生は少し笑いながら、知加子に近づく。
「店長にお客さんです。」
「あたしに?どんな人?」
 すると武生の後ろから一人の男が顔をのぞかせた。
「こんな人。」
 その顔は久しぶりに見る顔だった。知加子は笑いながら、手を洗って彼に近づく。
「棗さん。ひさしぶりー!」
「お前さ、店を開店させたんなら連絡しろよ。」
「だって棗さんさ、店に電話してもいっつも学校ですとか外出中ですとかばっかだもん。」
 勝手に上がり込んで、勝手にキッチンに入って、そんな男なのだろうが、ずいぶん勝手な男だ。
「知加子。コーヒー飲みたい。それからよ、待ち合わせに使っていい?」
「そんなこと気にしないでくださいよ。コーヒー。ホットで良いですか?」
「あぁ。ここのコーヒー美味いもんな。」
 驚いたように武生が見ていて、しまった最初に紹介すれば良かったと知加子は思っていた。
「あ、ごめんね。紹介してなかった。この人ね、あたしの料理の先生なの。」
「料理の?」
「専門は和食だけどな。まぁ、こだわりはねぇよ。バイト君。」
「……武生です。」
「俺は、蔵本棗。名刺やろうか?」
 そういって棗は武生に名刺を渡した。そこには和食の店の屋号が乗っている。住所は、ここら辺ではなく大きな街のようだ。
「学校の講師もしてるけど、それもいる?」
「いいえ。店がわかればそれで良いです。」
「でもその店、もうすぐ俺、居なくなんのよ。」
「え?棗さん、店畳むんですか?」
「いいや。治に譲ろうと思ってな。今、金の折り合いつけてるとこ。」
「なんで?凄い儲かってるでしょ?」
「だってよぉ。最初のほう、売れねぇからって顔いい奴集めて仲居にしたらさ、変な取材ばっかくるんだよ。料理より運んでる奴の写真が大きいような雑誌には載せたくねぇし。」
「確かにそうだわ。」
 知加子も笑っていた。
「ここも儲かってんだろ?」
「そこそこ。ランチがあるから儲けが出てるって感じですよ。」
「雑貨売れねぇの?」
「もう衣類はあきらめたんですよ。肌触りとか良いと思って買っていっても、こっちの国の人って何でも洗濯機が洗ってくれるって思ってるとこあるじゃないですか。だから色落ちしたとか、ごわごわしたとかクレームが多くって。」
「バカじゃねぇの?麻をそんな普通の洗い方で洗えると思ってんのかな。」
 ずいぶん心を開いているように見える。武生にはそんな弱みを見せたことはない。棗がどんな人なのかはわからないが、知加子の心の支えになっているのだろう。
 考えてみればここで働いて数日たつが、あまり店のことは教えてくれない。最低限のことしか知加子は言わないのだ。何故かそれが悔しかった。相手にされていないと思えたから。
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