夏から始まる

神崎

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 その日の早朝。まだ薄暗いが、繁華街の西側は相変わらずネオンやピンク色の看板が光っている。そんな中、梅子はハーフパンツとTシャツ、首にはタオルと腰にはスポーツドリンクが入ったペットボトルが下がっている。
 見よう見まねのストレッチをして、繁華街を駆け抜けていく。
 究極の見かけ倒しだと言われている菊子とは違って、梅子は運動神経が悪くない。体も柔らかく、体力があるのは男を一度に数人も相手にすることがあるからだろう。
 だがそれだけでは足りない。
 梅子は数日前から、正確には中本と会ったその次の日から毎日走っている。そうして体を作っておきたいと思ったのだ。
 知り合いの男から借りたAVの映像。それから写真集。笑顔で胸を強調したり、一度に何人もの男を相手にして派手なパフォーマンスをしているだけだと思っていた。だが、よく見ると彼女らの体は良く鍛えられ、手入れを怠っていないように見えた。自分の体が売り物で、価値があるのだから手を抜きたくないと言っているように見える。
 何もしないで、ただ男とセックスをしているだけではないのだ。それだから変な業者に目を付けられる。少なくとも蝶子の娘というのは、調べればわかるし喉から手が出るほど欲しい人材なのかもしれない。
 蝶子の娘という枠ではなく、自分を見て欲しかった。
 繁華街を抜け、その横にある団地を抜けると、川が見える。多くな川でその向こうには海があるが、さすがにそこまでは行けない。そしてその河川敷には櫓やステージが組み上げられている。それは明日の祭りに向けてだろう。昼間は中学生や高校生の吹奏楽部や軽音楽部、社会人のコーラスなどのステージがあるが、夜には花火がある。次の日は盆踊りやプロのバンドがやってきて、二日間でこの街はお祭り騒ぎになるのだ。
 もちろん梅子だってそれに去年は便乗し浴衣を着て、そのままナンパについていき、二度と会うことの無いような男たちとセックスをしていた。
 今年はそんな気分になれない。
 街を歩いていても、家族連れを見ると心が痛い。子供の手を繋いだ父親の姿。その横で笑っている妻。きっと堂々と日の当たるところを歩ける関係なのだから。
 河川敷で少し足を止めた。ゆっくり歩きながら汗を拭き、ペットボトルの蓋を開けて口を湿らせる。
 動機は不純だったが、走るのは悪くない。心まですっきりするようだ。
 だがステージが見えて足を止める。あそこで菊子が歌うのだという。そのために毎日のように仕事が終わったあと、ライブハウスへ行っているらしい。菊子はオペラのアリアも、ピアノも、練習はあまり出来ていないと言いつつんも手を抜くことはない。両親に言わせればまだまだだということなのだろうが自分には出来ないし、素直に凄いと思う。
 暇があれば練習をしている。歌を聴いている。そこまで変えたのは蓮のおかげだ。梅子や武生ではどうにもならなかったかもしれない。
「自分にもそんな出会いがあるのかな。」
 未来はわからない。だがもう過去は振り返らない。心の中で想っていた人は、妻と子供の元へ帰ったのだから。

 約一時間ほど走ると、もうすでに太陽は上がっていて日差しがきつくなってきた。梅子はアパートへ戻ろうと西側の道を歩いていたときだった。男が梅子に駆け寄ってくる。
「梅子。」
 そちらを見ると、そこには金髪の男がいた。あまり覚えていないが、おそらくセックスをした相手だろう。
「あー……。えっと……。」
「冷てぇじゃん。名前も覚えてねぇのかよ。」
 思い出した。渋沢という先輩だった。
「最近ずっとご無沙汰じゃん。」
 近寄ってくると、景気がいいのか石鹸の匂いがした。おそらくソープか、ヘルスへ行ってきたのだろう。
「……そんな気になれないの。」
「何?お前、やっぱあれ?ソープ行ったから足りてるってこと?」
「は?」
「誰か言ってたぜ。梅子がソープに行ってがんがん稼いでるって。」
 誰がそんなことを言ったのだろう。ため息をついてもう行こうとした。しかし渋沢は食い下がる。
「梅子。金貸してよ。」
「何で?」
「稼いでんだろ?じゃねぇと、これ、どっか売るから。」
 そういって渋沢は、梅子に携帯の画面を見せる。そこには梅子が数人の男とセックスしている動画が、ありありと映されていた。AVではないそれには、当然のように修正が入っていないので、どこか生々しいと思った。
「そんなもん、どこに売るって言うのよ。」
「え……?買ってくれるとこなんかどこでもあるんだよ。お前が知らないだけで。」
「一般人の乱交プレイなんて買うような業者は無いわよ。それにそれが出たところで、あたしが誰とでもしてたなんてこと誰でも知ってるわ。」
「……梅子……。」
「自分の貧相なチ○コ晒したいなら、そうすれば?」
 言葉に詰まる。これが男慣れしているということなのだろうか。それともバックに誰かついているのだろうか。誰が?
 思い出したのは、ヤクザだった。
「くそ。生意気な女。」
 渋沢はそういって梅子に詰め寄る。すると彼女は抵抗するように、彼に背中を向けて走り出した。
「やー。なによぉ。」
 いくら梅子が足が速いからといって、男の足を巻けるわけがない。彼女は公園近くにくると、肩を掴まれた。
「来いよ。久しぶりにみんなで楽しもうぜ。」
 こういうことも想像していたのかもしれない。その公園に隣接する駐車場から一台の車が出てきた。窓にスモークが貼られている車に、梅子はぞっとした。
 そして昔を思い出す。抵抗しても、何をしてもやめてくれず、気が辺になったあの真夏の日のことを。望んでするのと、無理矢理するのは訳が違う。恐怖心でどうにかなりそうだった。
「いやぁ!」
 思い切って渋沢の手を振りきって、すぐに走り出す。そのときだった。
「梅子!」
 彼女の手を引いた人がいた。そして渋沢の前に立ちふさがる。
「何だ。お前。」
 足を止めて、振り返る。そこには黒いジャージの男が渋沢の前にいる。後ろ姿しか見えない。だが誰だかすぐにわかった。
「……。」
 渋沢はその男に拳を振りかざそうとした。しかしその手を掴み、男は渋沢を背負い投げで投げ飛ばす。とっさに受け身も出来なかった渋沢はそのまま地面に叩きつけられた。無様に倒れ込んで、頭を打ったのかぴくりともしない。
 車のドアが開く音がする。まずい!男は梅子の方へやってくると、彼女の手を握り走り出した。
 その温もりを知っている。梅子はその温もりを感じながら、彼に引きずられるようにして走っていった。
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